「でも、ある日、ホテルに入ろうと2人で歩いていたら、タタタッって走り寄るような足音が聞こえてきて、わけがわからないうちに手首をつかまれたんです……ダンナだったんですよ、私の手首をつかんだのは」
鬼の形相とはこのことだ、と七海は思ったという。驚きすぎて現実味がなく、一瞬だけ妙に冷静になったのだと。
「問題はその後です。ダンナが塚原さんにつかみかかって、おまえ誰だって。ダンナは空手をやってたので自信があったみたいですが、塚原さんが意外と強くて、本当に取っ組み合いになってしまったんです」
七海は、夫の怒鳴り声を聞いた人が警察に通報しやしないかと気が気ではなかった。ただ、塚原が何者かを知られていないという事実が救いだと思ったのだという。
「尾行してきたらしいんです。会社休んでまでですよ。明らかに私の化粧や服装が変わってキレイになっていったから間違いないと思った、だそうです。自分では気づかなかったけど、機嫌も良かったらしいんですよ。笑顔でメール打ってるのも前と違ったって。
ダンナ、私のことを意外とよく見てるんですね。そこまで私に関心があるなら、日頃から構えよって話なんですけど。まあ、構われたところで願い下げですが」
塚原は自分が何者なのか、最後まで口を割ることはなかった。戦利品もなくすごすごと帰るわけに行かない夫は、塚原の前で「もう二度と夫以外の男と会いません」という念書を七海に書かせた。
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