「個室は高額で無理だということで4人部屋に入ったんですが、その部屋に違和感を覚えたんですね。やがてその違和感の正体が『無音』であることに気が付きました。テレビは一台もなく、ラジオも音楽も館内放送もない。全くの沈黙です」
テレビは見られないのか、音楽を聞けないのか。幹人さんは、妻に尋ねた。
「妻はしれっとこう言いました。『テレビは入所者の皆さんが集まる場所にだけあるの。お部屋にテレビなんかを入れると、こもり切りになってしまう人がいるんだとかで。いいことだよね』と」
場に慣れず目を泳がせている母親と、真っ白な天井を睨むようにただ寝かされている母以外の3人の入所者。そして真っ白な壁に真っ白な床。ちょっとした音も響き渡るような無音の白い部屋は、幹人さんから見ると正直不気味だった。
「こんな所に長時間寝ていたら、認知機能が低下してしまうんじゃないかと思いましたが……。スケジュール通りに回診やリハビリ、入浴、皆さんとの交流があるから大丈夫だと妻は言い切りました。ですから、僕もその言葉を信じて単身赴任生活に入ったわけです」
毎週末帰ってこられるような近距離なら良かったが、幹人さんの赴任先は遠方だった。そのため、盆や正月といった長期休暇にしか地元に戻ることはできなかった。
加えてコロナ禍。帰省したとて、母親との面会は叶わなかったという。
「タイミングが合わず、一度だけ施設の玄関前からガラス張りの窓越しに手を振り合うことはできたんですが、その時の母親の泣き出しそうな顔は今でも忘れられません」
一抹の不安を覚えながらも、妻の言葉を信じて母を施設に任せた幹人さん。しかし、日が経つにつて、母に認知機能の低下が疑われるようになっていった。
さらに、母は職員からの扱いのひどさを訴え「家に帰りたい」とこぼすようになる。
後編では、母の訴えと冷淡な妻の態度、幹人さんの後悔について詳報する。
取材・文 中小林 亜紀