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日産は「すでに日本の企業ではない」のか? その歴史と名車を紐解く

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安全装備や自動運転でますます高額化している現代のクルマ。上手に購入する方法は? さらに、所有してからも様々なトラブルやアクシデントが起きるのがカーライフ。それら障害を難なくこなし、より楽しくお得にクルマと付き合う方法を自動車ジャーナリスト吉川賢一がお伝えします。

日本の自動車メーカーの中でも、ひときわ古い歴史を持つ、日産自動車。現在の「日産自動車株式会社」が発足したのは1934年6月(昭和9年)、3つの会社の吸収・合併から始まりました。今回は、日産の誕生時代から、最近のルノー、ダイムラー、三菱との協業に至るまでを、振り返っていきます。

 

■黎明期

1910年ごろ、和暦にすると明治から大正にかけて、日本の道路を走っていたクルマは、フォードやGM(ゼネラルモータース)といった外国車ばかりでした。

そのなかで、いち早く自動車の国産化にのりだしたのが、1911年に橋本増治郎が中心となって設立した快進社自働車工場です。1914年には、国産自動車第一号となる、ダット自動車(脱兎号)が、完成。「ダット」は、出資者である3名(D:田健次郎、A:青山禄郎、T:竹内明太郎)の頭文字からつけられたようです。

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ダットサン14型(1935年) 1934年に建設された横浜工場で製造 年間1万台規模を生産する本格的な量産乗用車で、幌製のルーフを備えるオープンカーだった

その後、1918年に「株式会社快進社」として発足し、日本初といわれる単塊鋳造4気筒エンジンの「DAT41型」を発売。しかし、経営が不振だったことから、販売を強化するため、1925年に「合資会社ダット自動車商会」として再スタートします。1926年、小型三輪自動車の生産を日本で行っていた米技師ウィリアム・R・ゴルハムの実用自動車製造と合併し「ダット自動車製造株式会社」が誕生、1931年には、のちに日産自動車の創業者となる、鮎川義介率いる戸畑鋳物の傘下となります。

1933年には、新子安の湾岸埋立地(現横浜工場)にあった2万余坪の土地を横浜市から買い取り、鮎川義介が設立した持ち株会社、日本産業と戸畑鋳物で出資、社名を「日産自動車株式会社」へと変更したのが1934年6月(昭和9年)のことです。

 

■成長期

1943年、第2次世界大戦に伴い、日本の自動車産業は、全面的に生産中止となります。しかし、終戦からわずか2年後の1947年には、のちに「プリンス自動車」となり、日産自動車と合併する「東京電気自動車」から、電気自動車「たまE4S47(1947年)」が登場。その後1950年代から1960年代にかけて、日本の自動車製造事業は波に乗っていきます。

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たまE4S47(1947年) 戦後間もない日本では石油燃料がなかったため、電気によって動くクルマが求められた その期待に応えたのが、戦後初の電気自動車

日産は1958年に米国輸出を開始。また、この年日産は、第6回豪州一周ラリーに「ダットサン210」で初出場、なんと1台がAクラス優勝する快挙を成し遂げます。その後、米国日産(1960年)、メキシコ日産(1961年)、豪州日産(1966年)を次々に設立、海外進出を果たしていきます。

1962年には追浜工場が、1965年に座間工場が完成。そして、1966年にはプリンス自動車と合併し、村山工場も日産自動車に帰属することとなりました。製造工場を大幅に増やしたことで、1969年には、輸出累計100万台を達成。1971年に栃木工場完成すると、その翌年には、生産累計1000万台を達成。1977年には九州工場も完成し、わずか5年で、生産累計は2倍の、2000万台にまで増えました。

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日本を代表するスポーツカーとして、北米市場で大ヒットを達成したS30型フェアレディZ (1969年誕生) 「3万ドルで手に入るスポーツカー」として多くの若者を虜にした

なお、伝説のスポーツカー、「S30型フェアレディZ」が誕生したのも1969年。日産のイメージを海外(主に北米)に広めた、一番の功労者でもあります。

 

■成熟期

1980年代に入り、日産から名車が続々と誕生します。プリンス自動車から引き継いだスカイラインはR31型に(1980年)、欧州で爆発的な人気を得たマーチはK10型に(1982年)、フェアレディZもZ31型へ(1983年)、他にもセドリック、ブルーバード、ローレル、グロリア、シーマ、レパード、シルビアなどがモデルチェンジを繰り返し、熟成されていきます。

なかでも、「1990年にはハンドリング世界一を獲る」という日産の901活動によって誕生した1989年-90年登場のクルマ達、R32型スカイラインGT-R、Z32型フェアレディZ、P10型プリメーラ、N14型パルサーなどは、非常に高い評価を得ます。また、北米向けの高級車ブランドとしてINFINITI「インフィニティ」が設立したのも、1989年でした。

しかしながら、1991年ごろからのバブル経済崩壊を受け、日本全体が不況へとなり、派手やかだった自動車業界も一気に冷え込みます。また高級路線で進んできた日産も、無理な投資がたたったことで経営は悪化、収益は減少する一方で採算がとれず、モデルライフは長期化し、90年代後半には倒産危機に瀕することになります。

そんな日産の危機を救ったのが、「コストカッター」との異名を持つ、当時ルノーのカルロス・ゴーン氏。1999年にルノー資本参加の提携を結び、倒産の危機を逃れたのち、1999年10月の「NRP(日産リバイバルプラン)」をたて、負債返済を目指しました。村山工場の廃止(2001年)や早期退職制度など、多くの痛みを伴った内容ではありましたが、1年前倒しで「NRP」を達成。その後も順調な回復をみせ、日産は成長軌道に戻ります。

ティーダ、ティーダラティオ、フーガ、ムラーノ、ラフェスタ、エクストレイル、ノートなど、それまであった有名な車名を変え、日産のイメージを大きく変えたのもこの頃です。ちなみに筆者もちょうどこのころに日産へ入社しました。しかし、社内には働き盛りの30~40歳代のエンジニアが圧倒的に不足しており、ベテランか若手しか残っていないような状況。諸先輩方から、90年末当時に起きていた嵐のような社内状況を聞き、身が引き締まる思いを感じていました。

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日産GT-R R35型(2007年)、現在もまだ進化しつづけるR35 GT-R 職人手作りの3.8L、V6ツインターボ、初期モデルは480psを発生 価格はなんと777万円だった

ちなみに、日産GT-Rが登場したのは2007年。デビューイベントでは、ニュルブルクリンクのラップライムを刻むGT-Rの走りを、社内の全員が仕事をする手を止めて、見入っていました。当時の市販車最速記録「7分38秒」を刻んだ瞬間のことは、今でも強く印象に残っています。

 

■今は耐え時

2010年を迎え、世界初の量産電気自動車「リーフ」を発売開始。EVとして、世界中へ供給され、様々な国の人に、その新鮮な走りを伝えることになりました。また、2016年には、三菱自動車との戦略的アライアンスを締結。e-POWERを初めてノートに搭載して登場させたのも2016年です。

現在は、不祥事やコロナ禍を受け、苦境に立たされていますが、昨年5月に行われた、日産の2019年度決算および2020~2023年度事業構造改革計画の発表は、ただならぬ決意を感じることができる内容でした。

昨年末には、主力コンパクトカーの「ノート」の新型が登場し、今年はエクストレイルやアリアなど、続々と新型車の登場が期待されています。株式の43.7%をルノーが保有し、ゴーン元社長の印象や、ここ数年の日産の日本市場軽視などから、「すでに日産は日本の企業ではない」といわれることも多いのですが、日本で生まれ、日本人の技術者たちによって、これだけの実績を作ってきた企業であることは事実です。そしていま日産は、その系譜を守ろうと、必死に努力しています。果たして、ここからどんな巻き返しをみせてくれるのでしょうか。

 

Text:Kenichi Yoshikawa
Edit:Takashi Ogiyama
Photo:Nissan,Nissan Heritage Collection,Getty Images
 

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吉川賢一ポートレート吉川賢一(自動車ジャーナリスト)1979年生まれ。元自動車メーカーの開発エンジニアの経歴を持つ。カーライフの楽しさを広げる発信を心掛けています。

 



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