ほろ苦い思い出です
学生時代、ぼくはとにかく金がなく、色んなアルバイトをした。マクドナルドの店員に牛丼屋の店員、引っ越し屋に警備員、さらには運動会の設営と進行なんてのもやったりしたが、ある日同級生から家庭教師を勧められた。
聞けば、時給2000円はもらえるという。当時のアルバイトといえば時給800円もらえれば高い方だったから、2000円は破格だが、家庭教師は1日にせいぜい2時間だ。
「日給だと4000円か……」
「でも、家から通えるし、相手のレベルも選べるから、お奨めだよ」
「どうやって相手を見つければいいの?」
「紹介してくれる業者があるんだ」
「何それ?」
「教科や場所などの条件を登録しておくと連絡が来るんだ」
「知らなかったよ。でも、そういうところってピンハネするんでしょ?」
「ぼくらからピンハネはしないけど、家庭教師先の家から日給の2倍くらいを取っているらしいよ」
だとすれば、幾らなんでも気の毒だ。相手とじかにやりとりずれば無駄な費用は払わずに済むし、こちらだって気持ちがいいと思ったが、問題はどうやって相手を見つけるかであった。
ある日、府中駅前の信金にお金を下ろしに来ると、店内の伝言板が目に入った。そこには、「家事代行します」
「庭の手入れします」
などと書いてあったが、その中に、
「家庭教師します。小学生の国語と算数。時給応相談」
というのがあった。
なるほど、その手があったかと思った。
他にも家庭教師の書き込みがあったが、どれも小学生や中学生を対象にしたものばかりだった。
ぼくは数学が得意だった。そこで掲示板にこう書いた。
「高校生の数学の家庭教師します。時給応相談」
数日後、同じ府中に住む高校生の母親から電話が来た。
「高校生の数学を教えてくれる人がなかなかいなかったんです」
「大丈夫ですよ。数学は得意ですから」
「では、お願いすること前提で、一度ウチまで来ていただけませんか?」
「わかりました」
現れたエキゾチックな母親
約束した日にぼくは相手の家を訪ねた。
家は一戸建てで新しく、オシャレなブロック塀に囲まれていた。インターホンを押すと、チャイムの音につづけて、
「はーい」
と女の声がした。
「家庭教師の件で電話をいただいた松井です」
「いま開けまーす」
ドアが開いて女の人が顔を見せた。電話をくれた母親なのはわかったが、顔を見てドキッとした。混血を思わせるエキゾチックな顔立ちで、ハリウッド映画に出てくるアジア人女優のような雰囲気があった。
リビングに案内されると高校生の息子がいた。
「陽一(仮名)です。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしく」
話は母親主導で進み、息子は黙って聞いていた。時給は3000円くれるという。ぼくとしては申し分なかった。
「よかったら、今日からさっそく始めてもらえませんか?」
もちろん、そのつもりだった。
「先生、ママのこと好きでしょ?」
息子の部屋に案内された。ぼくのアパートより広いくらいだった。お金持ちなんだと思った。
さあはじめようと、勉強机の前に並んで座ると、いきなり息子が言った。
「先生、ママのこと好きでしょ?」
ぼくは慌てて、「そんなことないよ!」
「嫌いなの?」
「いや、そうじゃなくて」
「やっぱり好きなんじゃん」
勘のいい少年だと思った。
「でも、ママってたしかにきれいだよね」
「短大時代にミスコンに出たことがあるんだ」
「そうなんだ!」
「結果知りたい?」
「うん」
「じゃあ、教えない」
こうしてぼくの家庭教師は始まった。
「食事召し上がっていきません?」
ぼくは週2回訪問し、2時間教えることになった。
そんなある日のことだった。
いつも通りに行くと、息子はまだ帰っていなかった。部活の大会が近づいているため、練習を抜けられないというのだ。
「ごめんなさいね。電話した時はもう先生が出ちゃった後で……」
「しょうがないですよ。じゃあ、また明日来ます」
そういって帰ろうとすると、
「よかったら食事召し上がっていきません? 食べているうちに帰ってくるかもしれないから」
「でも……」
「もう用意してあるんです」
これまで、お茶やおやつを出してもらったことはあったが、ごはんは初めてだった。
テーブルに向かい合わせに座ると体がコチコチになった。
彼女がビールを注ごうとしたので、ぼくは遠慮し、
「陽一君が帰ってきたら勉強教えなくちゃいけないから」
「大丈夫よ。一杯ぐらい、いいじゃない」
グラスを合わせた時、彼女の顔を見た。最初からきれいだとは思っていたが、やっぱりきれいだ。
まじまじと見ていると、
「なあに? 先生?」
「何でもないです」
「ふうん。何でもないんだ」
食事をしながらも度々目が合うが、何だかバツが悪い。ビールを飲み干すと、彼女が注いでくれる。それを繰り返すうち、ぼくは酔ってしまった。これでは息子が帰ってきても勉強が教えられない。
「私、肩こりがひどいんです」
食事を終え、息子の部屋にいると、彼女が入ってきた。
「先生、ちょっとお願いしてもいいかしら?」
「何ですか?」
「私、肩こりがひどくって、ちょっと揉んでくださらない?」
彼女は息子の椅子に座った。ぼくは後ろに立ち、ワンピースの上から肩に触れた。とても華奢だった。
首の付け根を押すと、
「そう、そこ! そこ!」
絞り出すような声に続き、
「もうちょっと下をお願い」
肩胛骨と肩胛骨の間のあたりを押すと、
「そこ、効くわー」
すると彼女は腰をあげ、息子のベッドにうつぶせになった。
「背中もお願いできないかしら?」
もう、流れに任せるしかないと思った。
ぼくは彼女の背中を優しく押した。肩から背中に移動するうち、下着の紐に手が当たった。決してわざとではなかった。咄嗟に手を引っ込めると、彼女は何も言わず、後ろ手にホックを外した。ぼくは無言でマッサージを続けた。
「言うと自慢になっちゃうから」
しばし沈黙が続いた。何か言わなきゃと思った。
「短大時代にミスコンに出たって、陽一君から聞きました」
「まあ……」
「結果を知りたいと言ったら、教えてくれなくて」
「あの子らしいわ」
ぼくは手を止め、
「優勝したんじゃないですか?」
「言うと自慢になっちゃうから」
彼女の背中が汗ばんできているのがワンピースの上からもわかった。
「あー、気持ちいい」
彼女はため息をついた。このままどうなるのだろうと思っていると、玄関のチャイムが鳴った。
「陽一が帰ってきたわ」
彼女はベッドから起き上がり、ぼくのほっぺたをつまむと、
「続きはまた今度ね」
といって玄関に行った。
下着を外したままで大丈夫なのかとぼくは思った。
松井政就(マツイ マサナリ)
作家。1966年、長野県に生まれる。中央大学法学部卒業後ソニーに入社。90年代前半から海外各地のカジノを巡る。2002年ソニー退社後、ビジネスアドバイザーなど務めながら、取材・執筆活動を行う。主な著書に「本物のカジノへ行こう!」(文藝春秋)「賭けに勝つ人嵌る人」(集英社)「ギャンブルにはビジネスの知恵が詰まっている」(講談社)。