スカパー 対 DirecTV もう一つの家電系戦争
僕がSONYの社員だったころの話だ。
任天堂VSセガVSプレステが「家庭用ゲーム機戦争」を繰り広げていた時代と相前後し、もう一つの家電系戦争が起きていた。スカイパーフェクTV(現スカパー)対 DirecTVの戦い、俗に言う衛星放送戦争だ。
今ではDirecTVは消滅し、スカパーだけになったので、もうみんな忘れてしまったかもしれないが、当時はどちらが業界を制覇するかで熾烈な勧誘合戦を繰り広げていた。
どちらもチャンネル数が何十とあり、充実したラインナップを揃えているが、違いがわからなかった。それに、チャンネル数は多いほうが良いように思われがちだが、当時の日本人にとっては多すぎた。ぼくもそうだったが、あの頃はしょせん3つか4つしかない民放のうちのどれが面白いかを考える程度で、いきなり何十ものチャンネルが見られると言われても、その感覚について行けず、ポカンとするだけだった。
実は、ソニーはスカパーのチューナーを製造し、パナソニックはDirecTVのチューナーを製造したように、一応の対立関係にはあったが、それはそれとして「どっちがいいんだろう」と社内でも話題になるほど、みんな決めかねていた。
しかし、考えていても結論は出ない。この際、店員さんに聞いてみようと量販店にやってくると、DirecTVのブースがあった。
ぼくは単刀直入に聞くことにした。
「ダイレクTVとスカパーと、どう違うんですか?」
すると、間髪入れず、彼は言った。
「ディレクTVです」
「あれ? ダイレクTVじゃないんですか?」
「違います。ディレクTVです」
何だか想定外のことになってきたと思った。名前はアルファベットでDirecTVと書いてあるので、ダイレクトを意味するDirectとTVをくっつけた名前だと思い込んでいた。
しかしセールスマンは違うという。
ぼくは混乱し、
「でも、空から電波がダイレクトに降ってくるんだから、ダイレクTVのほうが正しいんじゃないですか?」
「いや、ディレクTVが正しいです」
「でも、変な名前ですよ。日本人には発音しにくいし」
「それは日本人の発音が悪いだけです。正しいのはディレクTVです」
このやりとりでぼくはどんよりした気持ちになり、スカパーに入ることにした。
ダイレクTVが正しかったのかディレクTVが正しかったのか、今となってはどうでもいいいが、ほとんど同じサービスであったにもかかわらず、ダイレクTV(ぼくは今でもそう言っている)はその何年か後に消滅した。
マンションで浮気が発覚
そんなことが起きていた頃、ぼくは性懲りもなく、深川のマンションに住み、理事長を押しつけられていた。
理事長は2年交代の持ち回りのルールだったが、次の順番の家が引き受けてくれず、延長につぐ延長で、ぼくが3年目に突入した頃、同じフロアで浮気騒動が勃発した。
フロアには4つの部屋があり、一番奥の4号室に住むアラフォー夫婦のイケメンご主人が、奥さんの帰省中に女を連れ込んだのがバレたのだ。
むかし「Age35 会いたくて」というテレビドラマで、妻の田中美佐子の帰省中に夫の中井貴一が愛人の瀬戸朝香を連れ込んでいると、田中美佐子がフェイントで一日早く帰宅し、シャワーから出てきた瀬戸朝香と鉢合わせるシーンがあった。
それを見ていた会社の同僚が、
「旅行から絶対に早く帰っちゃいけない」
と結婚したての同僚に言っていたが、同じフロアでそれが起きたのだ。
ぼくに告げ口してきたのは別のフロアの奥さんだった。ある日マンションに帰ったところを呼び止められ、唐突に告げられたのだ。
しかも
「理事長なんだからしっかりしてほしい」
と文句まで言われた。
ただの名前だけ理事長のぼくに一体どうしろというのか。噂はまたたく間に広まった。それはマンション内だけに止まらなかった。近所のクリーニング屋のおかみまで知っていたからだ。
近所で評判のクリーニング屋の美人おかみ
彼女については少々説明が必要だ。こんな町に置いておいては勿体ないほど色気があったのだ。旦那がクラブかどこかで見つけてきたのか、クリーニング業界には悪いが、とてもクリーニング屋にいるような人ではない。今すぐ銀座にポンと出せば幾らでも稼げそうな感じの人なのだ。
いつも体の線がハッキリ見える服装で、胸元がぽっかり開いていた。古いハリウッド映画に出てくるマドンナのようでもあり、あるいは「ルパン三世」の峰不二子のようでもあり、そんな彼女はいつも体を大げさに動かし、とくに預かり物に札を付ける際に前かがみになる時など、本来は見えないはずのものがはっきり見えるほどだった。
この店にはとにかく男性客が多かった。
ぼくも、単にクリーニングに出しに来ただけなのに、どういうわけか口が勝手に動き、気づけばおべっかを言っていた。
「そんなこと言ってくれるの、松井さんだけよ」
彼女はそう言うが、他の男たちはもっとえげつない欲望丸出しのホメ言葉を言っているのをぼくは知っていた。中には手みやげ持参で来る身の程知らずもいた。要するに競争率が高いおかみだったのだ。
美人おかみの正体
ところがぼくは、思わぬ抜け駆けに成功した。ある日2つ隣の駅近くで買い物をしていると、偶然、彼女と出くわしたのだ。
「あら、珍しいわね。こんなところで会うなんて」
声をかけてきたのは彼女のほうだった。
「お出かけですか?」
「今日はお店が休みだから、ちょっとブラブラしていたの。松井さんは?」
「ぼくもちょっとブラブラしてただけ」
ウソだった。これから映画を見に行くつもりだったが、映画なんかいつでも見られる。
「お茶でもしない?」
「いいですね!」
人間は何かする際、堂々とするよりコソコソとするほうが喜びが増すと、エジプトだかどこだかの哲学者が言っていたが、わかる気がした。
二人で喫茶店に入り、向かいあって座った。知っているつもりでも、普段はしょせん客と店員の話しかしていない。お互いにどんな人間なのかはよくわからず、まるで初デートの高校生のように、趣味は何だとか、休日はどうしているのかなど話していた。
すると突然彼女が、
「そうだ、松井さんのマンションで浮気がバレた家があるでしょ?」
同じフロアのことに間違いなかった。
「何で知ってるの?」
「耳年増だから」
きっと「地獄耳」と言いたかったのではないかと思ったが、余計なことを言うのはやめた。
彼女は目の奥に喜びの塊のような光を発しながら、
「あの奥さん、悲劇のヒロインみたいになってない?」
「うん。マンション内でも腫れ物に触るみたいになってる」
「でも、浮気してんのは彼女のほうが先よ」
「ええっ!?」
まさかと思った。たしかにあの奥さんも色っぽい人だとは思っていたが、そこまでやっているとは気づかなかった。たまに挨拶をする程度なのだから、そんなことまでぼくが知るわけがない。
「ご主人の浮気はバレたけど彼女はバレてないの。なぜだかわかる?」
「わからない」
「ホントにわからない?」
「わからない」
「男って、ホント、鈍感よね~」
何でぼくが鈍感呼ばわりされなきゃならないんだと思ったが、そこは堪えていると、同じフロアの奥さんは、クリーニング屋に来た際、どこに映画を見に行ったとかどこの遊園地に遊びにいったなどと、話していたらしい。しかしご主人は仕事に行っているはずなので、おかしいと思ってカマをかけたところ、どうやら彼氏がいることがわかったのだという。
「秘密さえ握っちゃえばこっちのものよ」
薔薇にはトゲがあるというが、彼女は一体何をしようとしているのか。
ぼくは自分のことをペラペラと言わなくて本当に良かったと思った。迂闊なことを言えば明日には近所じゅうに広まったに違いない。軽はずみなことをしなくて本当に良かったと思った。
ついさっきまでは、彼女と何か起きるのを期待していたが、そんな気持ちは完全に失せ、はやくこの場から去りたかった。
お酒を飲もうという彼女に、適当な理由をつけてぼくは帰った。
愛人同伴で現れた4号室の奥さん
翌日ぼくは休みだったので、遅い時間に起き、新聞を取りに行こうと部屋を出ると、エレベーターから4号室の奥さんが出てきた。
「おはようございます」
声をかけると、奥さんは、「しまった」といった感じで、咄嗟に顔を伏せた。直後、若い男がエレベーターから降りてきて顔を伏せた。彼女は「失礼します」と言い、男と部屋に消えていった。
白昼堂々、勇気あるなぁと思った。
数日後、隣町を歩いていると、偶然その4号室の奥さんと出くわした。何だかバツが悪いので、気づかないフリをしようとすると、彼女のほうから話しかけてきた。
「あら、偶然ですね~」
困ったことになったと思った。
何を話していいかわからない時は天気の話題に限る、と会社の上司が言っていたのを思い出し、
「今日はいい天気ですね」
「お散歩ですか?」
「天気がいいので、ちょっとそこまで」
「今日はおヒマ?」
「天気がいいので、少し歩こうかと思って」
「天気なんてどうでもいいじゃない。それより、お茶しません?」
これまで、軽い挨拶程度しかしたことがなかったのに、今日はバカに馴れ馴れしい。
「さっきお茶飲んだばかりなんです」
「じゃ、コーヒーは?」
「そういう意味じゃなくて……」
不思議なもので、こちらが相手に興味を持っている時は、一度話を聞いてみたいと思っていたのに、相手のほうから強く来られるとなぜかその気が失せてしまう。なぜなんだろうと思っていると、後ろから
「あら~、珍しいじゃない」
別の女の声がした。
声の主を見て、ぼくは、しまったと思った。
クリーニング屋のおかみだった。
トンデモない場面を見られたと思った。これ以上ない、まさに最悪のシチュエーションだ。これはもうどんな噂を立てられるかわかったものではない。クリーニング屋のおかみは、同じフロアの奥さんの浮気相手をぼくだと思ったかもしれない。下手をすれば、明日から近所はぼくらの話で持ちきりかもしれないなどと、色んな不安がわき起こった。
「何を楽しそうに話してたの?」
おかみの目は笑っていない。
「普通の話よね~」
4号室の奥さんの目も笑っていない。
「うん。天気の話」
「私たち、いま偶然ここで会ったのよ。そうよね?」
「そう、ほんの偶然だよ」
ぼくはそう答えるしかなかった。
本当の話なのにウソにしか聞こえないのは、一体どういうわけかと思った。
「ふうん。どうぞ、ごゆっくり」
そう言い残してクリーニング屋のおかみは立ち去った。去り際に見せた彼女の目つきが、しばらく頭から離れなかった。
その後ぼくはクリーニング屋を変えた。
松井政就(マツイ マサナリ)
作家。1966年、長野県に生まれる。中央大学法学部卒業後ソニーに入社。90年代前半から海外各地のカジノを巡る。2002年ソニー退社後、ビジネスアドバイザーなど務めながら、取材・執筆活動を行う。主な著書に「本物のカジノへ行こう!」(文藝春秋)「賭けに勝つ人嵌る人」(集英社)「ギャンブルにはビジネスの知恵が詰まっている」(講談社)。