「女性が暴力を受けていると通報があったんです」
ソニーがプレステ(プレイステーション)を発売するまで、ゲーム業界は任天堂が王者として君臨し、セガがそれに挑むという図式になっていた。ただ、どんな世界にもアンチがいるように、ゲームの世界にも強すぎる任天堂を買いたくない人がいた。セガも2番手ながら、そんなアンチ任天堂を吸収しながら、じわじわと王者に迫っていた。
ソニーがプレステで参入したのは、ちょうどそんな頃だった。
街の公園で、オスのハトがメスのハトを追いかけ回しているのを見たことがあるだろう。それは鬼ごっこをしているわけではなく、オスの求愛行動なのだが、逃げ回っていたメスがオスのしつこさに観念し、ついに受け入れ体制をとった矢先、別のオスが現れ、連れていかれてしまうことがたまにある。
意中のメスが後から来たオスと一緒にあっちに行ってしまうと、最初のオスはもはや追いかけようとせず、人間から見てもそうとわかるほど、ただ呆然として、その方向を見ているものだ。
ゲーム業界は、そんな公園のハトの争いとそっくりだった。
セガはあともう一歩のところまでメスを追い詰めていた最初のオスで、プレステはまさに後から現れたオスだった。プレステが発売されると、セガはたちまち置き去りにされ、テレビCMでも社長自ら自虐ギャグを演じるほどになっていった。
ぼくはそんなセガの社長(たしか湯川さんといった)が気の毒でならず、
「プレステを買いたい」
と言ってきた知り合いには、自分がソニー社員であることを忘れ、
「セガを買ってやれ」
と言うほどだった。
マンションの前にパトカーが…
そんな頃、ぼくは依然として深川のマンションに住んでいた。
ぼくもそれまで何度か引っ越しをしたが、あのマンションはどう考えても普通ではなかった。理事長になってから、あのマンションの怪しさはエスカレートした。
ある晩のことだった。会社から帰ってくると、マンションの前でパトカーが停まっていた。
何だと思って声を掛けると、おまわりさんから鋭い目つきで睨まれ、
「あなたは誰ですか?」
「このマンションの理事長です」
すると、意外そうにぼくを見つめ、
「女性が暴力を受けていると通報があったんです」
「本当ですか! 部屋番号は?」
「803号室です」
「それは変ですね。803は男の一人暮らしですよ」
「でも、確かにその部屋から、暴力を振るうような音と女性の悲鳴が聞こえると通報があったんです」
「誰が通報したんですか?」
「隣の部屋の方だと言っていましたが……」
「じゃあ、きっと連れ込んだんでしょう。風俗嬢じゃないですかね?」
「そんなの知りませんよ」
おまわりさんは目を三角にした。
なぜぼくが即座に803号室の住人が誰なのかわかったかというと、そこに住む男が目立っていたからだ。190cmほどの長身に、彫りの深い顔。分厚い胸板に黒人のような足腰。時々玄関ですれ違うが、威圧感たっぷりの男だった。
形式的とはいえ理事長なので、どんな人が住んでいるのか住人のあらましは前任者から引き継いでいたので、803の男がサラリーマンだとは聞いていたが、普通のサラリーマンにあんな筋肉は必要ない。彼がなぜあれほど鍛えているのか、今になって急に怪しく思えてきた。
人を見かけで判断してはいけないと小学校の先生は言っていたが、もしやあの筋肉は、女を逆らえないようにするためなのか?
気づけば、いつの間にか近所のおばさんたちがあつまり、いかにも野次馬らしい目で見ていた。
「とにかく見てきます」
おまわりさんは上がっていったが、すぐ降りてきた。
「ケンカみたいですが、収まったようなので、我々はこれで帰ります」
そう言うと、パトカーに乗ってさっさと帰ってしまった。
集まっていたおばさんたちは、なあんだと言いたげな様子で帰っていった。
真夜中にガラスが割れ、女の悲鳴が響いた
その日の真夜中のことである。
眠っていると、ガラスが割れるような音がし、それに続けて女性の悲鳴や男の怒鳴り声が聞こえてきた。ドスンというような音も響いてきた。
瞬間的に、
「803号室に違いない」
と思った。
もし別の部屋だったとしたら、1軒のマンションに暴力男が2人も住んでいることになる。1台の飛行機に、単独のハイジャック犯が一度に2人も乗っていることなどないのと同じで、確率的に考えても803の男以外にあり得ない。
すでに誰かが通報したらしく、間もなくパトカーがサイレンを鳴らしてやってきた。深夜の下町にサイレンが響けばみんな起きる。1階に降りると、すでに野次馬が集まっていた。その先頭には、さっきと同じおばさんが立っていた。バカに嬉しそうな顔をしていた。その後ろには、旦那なのだろうか、もっとうれしそうな顔のオジサンが立っていた。
おまわりさんがパトカーから降りてきたが、昼間のおまわりさんかどうか、顔などいちいち覚えていないので、一応名乗ることにした。
「私が理事長ですが」
「通報がありましてね、女性が暴力を振るわれているようです」
「803号室ですか?」
「はい」
おまわりさんは上がっていった。
野次馬も徐々に増え、後から来た野次馬に、上の階を指さしながら何か説明している人もいた。
しばらくして、おまわりさんが降りてくるのが見えた。後ろに誰かを連れているので、大怪我した血だらけの女を保護してきたのかと思いきや、短パンにTシャツ姿のピンピンした女を連れてきた。女は酔っているのか悪態をついていた。
野次馬はざわざわとした。
おまわりさんはぼくに向かい、
「住人の男性から話は聞きました。我々はこれで撤収します」
「もう少し詳しく教えてもらえませんか?」
「後は我々がやりますので」
おまわりさんは女をパトカーに乗せて帰っていった。
野次馬は、何だつまらないというような目をぼくに向け、帰っていった。
お昼の番組にまさかの人物が……
その夜はなかなか寝付けず、そのまま会社に行った。
午前中の仕事を済ませ、同僚と社食でお昼を食べていると、テレビでは昼の情報番組が流れていた。そこに登場した男を見て、ぼくはごはんを喉に詰まらせそうになった。
803号室の男だったのだ。
男は何かの流行について説明し、これから世の中はこんなふうになると得意げに話し、他のゲストを唸らせていた。
唸らされたのはぼくも同じだ。
テレビ画面には
「ナントカアナリスト」
と、聞いたことのない横文字のテロップが現れ、新進気鋭の評論家と紹介されていた。
世の中わからないものだと思った。
テレビであんな立派なことを言っている人が、家に帰れば女を連れ込み、ガラスを割るようなことをしているのだ。警察はただのケンカだと言っていたから、そうと決めつけてはいけないが、どっちにしても裏表がある。
だいいち、あの筋肉が何より怪しい。
アナリストではなく、テロリストの間違いではないのか……。
その晩、夜中にコンビニに行こうとマンションを出ると、向こうから803号室の男が帰ってきた。
昨日の晩はあんなことをしたのに、今日はテレビでエラそうなことを言っていたので、ちょっとからかってやろうと思っていると、何やら上機嫌な様子で、あちらから、
「こんばんは~」
と挨拶してきたので、ぼくもつい、
「テレビ見ましたよ~」
と、お上手を言ってしまった。
松井政就(マツイ マサナリ)
作家。1966年、長野県に生まれる。中央大学法学部卒業後ソニーに入社。90年代前半から海外各地のカジノを巡る。2002年ソニー退社後、ビジネスアドバイザーなど務めながら、取材・執筆活動を行う。主な著書に「本物のカジノへ行こう!」(文藝春秋)「賭けに勝つ人嵌る人」(集英社)「ギャンブルにはビジネスの知恵が詰まっている」(講談社)。「カジノジャパン」にドキュメンタリー「神と呼ばれた男たち」を連載。「夕刊フジ」にコラム「競馬と国家と恋と嘘」「カジノ式競馬術」「カジノ情報局」を連載のほか、「オールアバウト」にて社会ニュース解説コラムを連載中