「愛妻弁当の人って、意外に愛人がいるって、ほんと?」
「でも、愛妻弁当の人って、意外に愛人がいたりするって聞いたことあるけど、ほんと?」
なつめちゃんが聞くと、村田さんは顔の前で激しく手を振り、
「私にはいませんよ!」
「実は競馬を当てて、愛人さんへお手当出そうと思ってるんじゃないの?」
「だから、愛人なんかいないって言ってるでしょー」
「そんなに真っ赤にならなくてもいいのに」
3人楽しく遊んでいたものの、村田さんだけ一度も当たらないままメインレースを迎えることとなった。
「さすがに一度くらい当てないといけないな」
そういって彼は肩をグルグル回し、競馬新聞に目を落とすと、全く人気のない馬に赤ペンで印をつけた。とんでもない穴馬だった。
「結構、負けが込んでいるから、取り返せるような馬券を当てたいと思って」
「そんな馬が来たら大変な大穴ですね」
「常識的には来ないですけどね」
「常識なんか捨てなくちゃ」
なつめちゃんが言った。
「でも、さすがにこの馬じゃ……」
「そういう馬が来た時ほど儲かるんじゃない。それに、どの馬にも勝つチャンスがあるんだし。私、買っておこうかな~」
彼女の言葉に、村田さんは腕組みして考え込んだ。
「乗ったほうがいいですよ。なつめちゃん、あげまんだから」
「あげまん?!」
「松井君、余計なこと言わなくていいの」
当たらない課長がとんだトラブルに……
ぼくとなつめちゃんが馬券を買って戻ると、村田さんはまだ考え込んでいた。
締め切り時間が迫っていた。
「村田さん、そろそろ買いにいかないと」
「わかった! 行ってくる」
村田さんは窓口に飛んでいった。ぼくらはビール片手にレースを待ったが、村田さんが戻ってこない。
「私、見てくるね」
なつめちゃんが探しに行くと、今度は彼女も戻ってこない。
どうしたことかと探しに来ると、村田さんが窓口のおばさんとモメていて、その横でなつめちゃんが困ったような顔をしていた。
「どうしたの?」
「馬券を買い間違えたんだって」
温厚な村田さんが、目を吊り上げて、窓口のおばさんに食い下がっている。
「だから、取り消してくれって、頼んでいるじゃないですか」
「ですから、一度お買い求めになった馬券は、買い戻しができないんです」
「買い戻しじゃなくて、値段だけ変えてくれって言っているんです」
「それもできないんです」
「困ったなぁ」
馬券を見せてもらうと、さっきの穴馬に何と1万円もつぎ込んでいる。
「1万円も買ったんですか?」
「慌てていて、マークシートを塗り間違えちゃったんだ」
「でも、当たったら何十万にもなるわよ。愛人さんへのお手当も出せるじゃない」
「冗談言ってる場合じゃないよ! 困ったなぁ」
すると、責任者らしき係員がやってきて、
「どうしたんですか?」
「馬券を間違って買っちゃったんで、取り消して欲しいんですが」
「申し訳ないですが、できないんですよ」
「塗り間違えてしまったんです。千円のつもりが1万円買っちゃったんです」
「1万円かぁ」
「こんな馬、1万円も買うわけないでしょ?」
「そうとも限りませんよ。人によりますから」
「そりゃそうだけど……」
「それに、外れたと決まったわけじゃないじゃないですか。どの馬にも勝つ可能性があるわけですから」
「ほらぁ。私と同じこと言っているじゃない」
「でも、1万円なんか買えないよ」
たしかにそれも言えると思った。ぼくでもあんな人気薄を1万円も買うことはできない。村田さんの気持ちもわかる。
まさに発売締め切りの直前だった。村田さんがついに泣きを入れた。
「お願いします! こんなに損したら帰れなくなっちゃうんです!」
「しょうがないなぁ。じゃあ、今回だけ、特別ですからね。次からは気をつけてくださいよ」
例外的に馬券を取り消してくれることになり、馬券と引き換えに1万円を返してくれたところに締め切りのブザーが鳴った。
間一髪で、取り消しが間に合った。
発揮されたあげまんの底力
ぼくらはゴール前でレースを見た。そんなぼくらの前で、レースは劇的な幕切れとなった。ゴールの瞬間、ぼくは頭を抱えた。
「しまった! 買っておけばよかった!」
何と、村田さんが買うのをやめた馬が真っ先にゴールに飛び込んだのだった。村田さんは呆然としていた。あのまま馬券を持っていたなら、数十万円の儲けになっていたはずだ。
「だから、来るかもしれないって言ったじゃん」
そう言ってなつめちゃんが馬券を出した。500円分、その馬を買っていたのだ。
「あんな話になったのも、何かの縁だと思ったの。だから押さえなくちゃと思って」
あげまんの底力は恐ろしいと思った。それと同時に、後悔の気持ちで頭がいっぱいになった。なつめちゃんが来るかもしれないと言ったのだから、ぼくも押さえておかなくてはいけなかったのだ。
まさに、後の祭りだった。
あのままなら数十万の大勝利だったはずの村田さんも、がっくりと肩を落とし、もはや最終レースをする気力も残っていなかった。村田さんを励ましながら馬券売場の前を通ると、窓口のおばさんがガラス越しにニヤニヤしていた。
Photo:Getty Images
Text:Masanari Matsui
松井政就(マツイ マサナリ)
作家。1966年、長野県に生まれる。中央大学法学部卒業後ソニーに入社。90年代前半から海外各地のカジノを巡る。2002年ソニー退社後、ビジネスアドバイザーなど務めながら、取材・執筆活動を行う。主な著書に「本物のカジノへ行こう!」(文藝春秋)「賭けに勝つ人嵌る人」(集英社)「ギャンブルにはビジネスの知恵が詰まっている」(講談社)。「カジノジャパン」にドキュメンタリー「神と呼ばれた男たち」を連載。「夕刊フジ」にコラム「競馬と国家と恋と嘘」「カジノ式競馬術」「カジノ情報局」を連載のほか、「オールアバウト」にて社会ニュース解説コラムを連載中