「団地妻」という響きへの憧れ
以前、Vol.7「ぼくはサングラスをして働いていた」でも書いたが、SONYは服装が自由だった。
中には、作業で洋服が汚れないようにと、エプロンをつけている女性社員もいて、かわいく見えるため男性の間で人気があった。とくに胸から膝までのエプロンは人気だった。
隣の部署にまさにそんなエプロン姿の女性がいて、一部の男性の間で密かに「団地妻」と呼ばれ、人気になっていた。
タバコ部屋で一服している時も
「今日、団地妻はポニーテールだ」
とか
「さっき団地妻とエレベーターで一緒だった」
などと噂をし、中には、
「さっき団地妻が歩いていた」
というような、どうでもいいことまで話題になっていた。その女性がかわいかったのはもちろんだが、要するに、オジサンたちは団地妻という響きに憧れていたのだ。
中年ならば知っていると思うが、ぼくらが子供の頃、日本中の男性サラリーマンが劇場のスクリーンに釘付けになった映画に「にっかつロマンポルノ」というのがあった。とくに白川和子主演の「団地妻シリーズ」は日本中を席巻していた。
ぼくの住んでいた田舎でも、太い字で「団地妻」と書かれた、まるで学生運動かと思わせるような巨大な看板が映画館の前に立てかけられていたほどだ。
だいぶ話が逸れてしまった。
そんなわけで服装は自由だったが、それがありがたいようで実はけっこう大変だった。カジュアルな服装は、毎朝、どれを着ていこうか迷うし、かといって手抜きをするとだらしなくなってしまうからだ。
問題はぼくにオシャレのセンスがないことだった。白いズボンに白いシャツで、まるで小学校の体操の先生みたいな格好になった時もあるほど、ぼくのセンスは狂っていた。
そこで、お店に行って店員に合わせてもらうことにした。
ぼくは某デパートに行った。
紳士服売場には幾つものブランドがあった。何気ない素振りで見て回るが、どれも分不相応な気がして、早くこのフロアから出ていこうと思っていると、女性の店員から声をかけられた。
「どうぞ、ご覧ください」
彼女を見てぼくは立ち止まった。女優の石田ゆり子を思わせるような女性だったからだ。だからといって彼女ばかりジロジロ見るわけにはいかず洋服を見ると、カジュアルで色がキレイだと思った。こんな服を着こなせたらいいなと思った。
「すいません。ぼく、全くセンスがないので、どういうのが自分に合うかわからないんです」
すると彼女はニコリとし、
「今お召しのお洋服もお似合いですよ」
途端に顔から火が出る思いがした。しかも「お召し」なんて言葉を使われたことなどはじめてだ。
「これなんか、適当に着ているだけで……」
「いえ、お似合いですよ」
社交辞令なのは明らかでも、やはり顔から火が出る思いがした。
モジモジしていると、彼女がぼくの頭から足までサッと目を走らせ、
「今日はどんなものをお探しですか?」
「夏用の服が欲しいんですが、どうも自分で選べなくて」
「こちらはいかがでしょう?」
彼女は涼しげなシャツを取ってぼくの前に立ち、ぼくの上半身に合わせるようにした。
「サイズもちょうどいいですね」
顔が30cmくらいに近づいた。
彼女の香りがした。何ていい香りなんだろうと思った。
ぼくはボーっとして彼女を見た。
「いかがでしょうか?」
「え?」
「私じゃなくて、鏡をご覧いただけますか?」
そう言って彼女は笑った。その笑顔がまた何ともいえなかった。
「お似合いだと思いますよ。色もお顔に合っています」
自分じゃわからないのに、そう言われると突然、もの凄く似合っているような気がしてくるから不思議である。このシャツに合うチノパンも選んでもらい、この日は2点購入して帰った。
翌日、さっそく着ていくと、毒舌で鳴らす女性から
「それどうしたの? いつもはダサいのに、今日はセンスいいじゃん」
「ほんと?」
「誰かに選んでもらったんでしょ? 誰?」
「内緒」
「誰なのよ」
「誰だっていいじゃないか」
やっぱり昨日の店員はセンスがいいんだと思った。
その日は一日気分が良かったが、彼女を思い出していたらどうしても会いたくなった。それに、何といっても彼女の香りが忘れられなかった。
そうなると、もう、気持ちを抑えられなくなった。ちょうどこの日は金曜日で気分にも余裕があった。
気づいた時には店に来ていた。