「困ったことがあれば何でもいいなさい」
まだ僕がSONYに入る前、学生時代に引っ越した府中にはヤクザさんが多かった。
街を歩くと、田舎の少年が見てもそうとわかるような人が大勢いた。パチンコ屋で何気なく隣を見ると、明らかにヤクザさんだろうと思われる人が座っていたし、食堂に行ってもきっとそうと思われる人が食べていた。
ぼくの隣の部屋にはヤクザのおじさんが住んでいた。パンチパーマで小太りで、いつも横縞のポロシャツを着ていた。あくまで田舎の少年だったぼくのイメージだが、もしあの人がヤクザさんではないとすれば、一体どんな人がヤクザさんなのかと思えるほど、漫画から抜け出して来たようなイメージ通りのヤクザさんのように思っていた。
そんな人が隣室に住んでいるなんて想像もしていなかった。引っ越しの挨拶をしようと、確か、おまんじゅうかおせんべいを持って挨拶に行った際、彼が現れた時は、エライところに引っ越してしまったと思った。ヤクザのおじさんは菓子折を受け取ると、
「困ったことがあれば何でもいえよ」
と、ぼくに優しくいってくれた。こうして、ビクビクしながら、ぼくの府中での生活は始まった。
アパートには鉄製の外階段があり、安普請のため、人が上がってくるとすごい振動でアパート全体が揺れた。
アパートには、とにかく色んな業種の営業マンがきた。新聞に健康食品、ふとんのセールスに英会話教材。中には新興宗教の勧誘や消火器の押し売りまできた。彼らが階段を上がるたび、アパートが揺れた。ときは昭和の「押し売り全盛時代」だったのかもしれない。
階段は真ん中の部屋の前についていた。なので、上がってきた人はまずヤクザさんの部屋の前に立つことになる。そうとは知らずにノックすると、出てくるのはパンチパーマのおじさんだ。
その風貌を見て、「間違えました」といって逃げるように去っていったものも多い。
だが、ある日訪ねてきたNHKの集金人だけは違った。NHKだけは「他と根性が違った」のだ。
パンチパーマのおじさんが現れても、平然と「受信料の徴収に伺いました」と言った。
ボロアパートだから話し声は筒抜けだ。気配を殺し、耳を澄ませると、二人の会話が聞こえてきた。
勇気あるNHKはヤクザさん相手に食い下がっていた。その粘りはヤクザさんが根負けするほどだった。
「受信料を払ってくれないと困ります」
「オレは困らねえよ」
「私が困るんです」
「お前がどう困るのか説明しろよ」
「払ってもらわないと上司に怒られるんです」
「そんなもん、我慢しろ。殺されるわけじゃねえだろ」
「違うんです」
「何が違うんだ?」
「テレビがある人は受信料払うって法律で決まっているんです」
「誰が決めたんだ」
「誰だっていいでしょう。とにかく法律でそう決まってるんですよ」
「そりゃ、法律が間違っている」
「テレビあるんでしょ?」
「ないよ」
「嘘つかないでくださいよ。音がしてるじゃないですか」
「あれは拾ったテレビだ」
「拾ったテレビでも何でも、払ってくれないと困るんですよ」
「何だと!? 拾った物に金払ったんじゃ、拾ったことにならねえじゃねえか!」
ドアがバタンと閉められる音がした。何という知恵かと思った。
続いてぼくの部屋のドアがノックされた。息を殺していると、隣の部屋のドアが開く音がし、
「そっちはいねえよ。帰りな」
ヤクザのおじさんはぼくを助けてくれたのだった。ぼくは隣の部屋に向かって手を合わせた。
次回では、ヤクザのおじさんが新聞勧誘を断った「仁義ないやりかた」を書いてみたい。
作家.松井政就(マツイ マサナリ)