FORZA STYLE - 粋なダンナのLuxuaryWebMagazine
FASHION 百“靴”争鳴

日本人が知らない、日本人の快挙! 靴の世界にも、誇れる女性職人がいた。

百靴争鳴。日夜美しい靴作りに情熱を燃やし合う、異色の靴職人たちへのインタビュー集。

ビスポーク靴業界の至宝、テリー・ムーアに学んだこと

「おぼろげな記憶を辿って思い出されるのは、一人前になるまでの日々の苦労よりもジェントルマンなテリーの姿でした」

テリーはジェントルマンでした

日本に帰って結婚しろ──。時代が時代なら許されない類いの発言ですが(笑)、このおきまりのジョークをのぞけばテリーはまさにジェントルマンを絵に描いたような人で、声を荒げたことは一度もありませんでした。

学生時代の忘れられない思い出といえば裁断の練習に与えられた革ですね。例えるならシルクのような手触りで、すいすい切れるなと思ったら、カールフロイデンベルグ(いまは亡きドイツの名門タンナー)の革でした。まわりの人が驚いていました。学生の練習にそんな革を使わせているんだから当然ですよね。

見習いが本格的に始まってからもテリーの接し方は変わりませんでした。いわゆる徒弟制度のような厳しさは微塵もありません。それはそれは根気強く、わたしに付き合ってくれました。

靴づくりはそのすべてが初めてのことばかり。多くのシューメーカー同様、都度壁にぶち当たりました。それでもなんとかやってこられたのは、みなさんが口を揃えていうように一枚の革が立体になるその過程がこよなく面白かったこと。そして壁にぶち当たるたびに やさしく見守ってくれるテリーという存在がいたこと。このふたつです。

思うようにつくれなくて、どんなに高い壁が立ちはだかっても、テリーに「大丈夫だよ」といわれると安心する。そうして次の階段に上がることができました。

ただ優しいだけじゃありません。わたしがつくったサンプルを社長が見て、「いいじゃないか、売り場に並べよう」といったことがありました。わたしは心のなかでガッツポーズをしたけれど、テリーはひと言「う〜ん」といっただけでした。わたしの成長を、きちんと見てくれていました。わたしはまるで娘のように大切に育てられました。

©Susumu Tsunoda

運良くイギリスにわたったその年に師匠に出会えたわたしは、しかしそのおかげで初めての海外を楽しむどころではありませんでした。自分の居場所を見つけるのに精一杯だったからです。

時期は定かではありませんが、バスパスを使ってロンドンを巡ったのはそのころの数少ない、お休みの日の思い出です。そうそう、これはだれにも話したことがなかったんですけど、少し余裕ができてからは友人と路上靴磨きをやりました。ロンドンの人と触れ合ういい機会だと思ったんです。だから無料で磨きました。1年ほど続けましたね。

同業者が一目も二目も置いた

テリーはビスポーク業界の至宝といっていい人。勉強ができなかったからこの世界に入ったと冗談めかしていっていましたが、彼を慕い、教えを請うためにワークショップを訪れた業界人は後を絶ちません。

テリーの本領である木型の魅力はなんといっても角のないシルエット。ミニマルで上品で、履けばふんわりと足を包み込んでくれます。

10代でピール&コーに入って、戦後ドイツに駐屯しましたが、、復員するとまたピール&コーで働きました。

ピール&コーは1791年に創業し、1965年に閉店したブーツメーカーです。ジョージ5世やウィンザー公からロイヤルワラントを授かった名門中の名門。ブルックス ブラザーズとのダブルネームでも有名ですね(閉店後はブルックス ブラザーズに商標を買いとってもらった)。フォスター&サンが掲げる狐とブーツのマークは、閉店に際し、ピール&コーからテリーが持ってきたものです。

そのころの昔話は決まってボーン(骨)。コードバンのケアで知っているかたもいらっしゃると思いますが、ボーンは革の強度を高めるのに使う道具です。加工処理が整っていなかった当時は土の中に埋めて汚れをとっていたそうです。なんでもバクテリアがきれいにしてくれるとか。テリーは来る日も来る日もボーンを使ってワックスドカーフのラインディングブーツを磨いたそうです。

インチのものづくり

イギリス人はインチでものを考えます。それは靴づくりも例外ではありません。インチはミリメートルに直せば25.4ミリメートルとなりますから、数値だけみれば大雑把ですが、ものづくりは けして大雑把じゃない。イギリス人は最後は手を信じて、ミリに負けない精度を追求します。

それはまさにテリーに教わったことでした。テリーは、数値は目安でしかないという人でした。そのラストメーキングには数値どころかマニュアルも手順も満足にありません。そして質問しても返ってくるのは決まって次の4つのフレーズでした。

"お尻を掻くのと掻きむしるのでは大きな違いがある"、"(動物の)ヒゲひとつ分"、"親指の法則"、"人生でもっとも大切なことは(イギリスの)お茶を飲んで休息することだ"──。

乱暴にひっくるめてしまえば、ラストメーキングに求められるのは繊細さと経験、そしてジェントルマンの鷹揚さ、ということになるかと。

学ぶほうは たいへんでしたが、テリーがいわんとするところはお客さんと接するようになって くっきりとした輪郭をともないました。

たとえばフィッティング。お客さんのきつい、ゆるいは感覚的なものでしかない。話しながら詰めていくしかない部分であり、それは数字では割り切れない部分です。靴づくりは、最後は経験がものをいうんです。そしてそこが面白いところです。

ただ、詰めの部分は日本人のわたしからすると少々甘い。わたしは可能なかぎり触診しつつ、気になる個所をメモしていきます。

社長が首相に抗議文を送る

通う回数は毎週土曜日の週1回から徐々に回数が増えていきました。コードウェイナーズのほうはテリーのもとで学ぶことを決めたその足で退学の手続きをしました。そうしておよそ5年の見習い期間を経て、わたしは正式に採用されました。テリーが社長に推薦してくれたんです。

それなりに腕を上げて、わたしが本気で靴づくりに向き合っていることをようやく理解したのでしょう(笑)。

しかし就労ビザを手に入れるまでは たいへんでした。

世事に疎い社長は ためらうことなくUKVI(英国ビザ・イミグレーション)に申請書を送りました。それでは駄目だとわかって、代行業を雇ってあらためて申請。ところがそれでも受理されなかった。

社長は怒りました。わたしの住むハックニー、店を構えるウエストミンスターの市長、そして首相のトニー・ブレアまで(!)──関係各所、それぞれに直筆の抗議文を送りつけました。

ビザの取得にはテリーも別のルートで動いてくれていたようなので、いまとなっては なにが功を奏したのかわかりません。

社長の切れやすい堪忍袋の尾が切れて数ヶ月後、なんの前触れもなくビザが送られてきました。

現場のトップにのぼりつめる

退職するまでの10年あまりはシニアシューアンドラストメーカーの肩書きでアトリエを差配するポジションに。

日本人で、しかも女性。たしかに はたからみればパイオニアということになるのかも知れませんね。そうおっしゃっていただけるのは光栄ですが、当時のわたしは さほど意識することがありませんでした。

わたしを後釜に据えることを決めたテリーは工房に顔を出す回数を徐々に減らしていきました。週5回が4回になり、3回になりました。テリーがいない日はわたしが差配する、というかたちで責任の所在が なだらかに移っていったからです。

多いときで5人の職人を束ねていました。みな、わたしのあとから入ったということもあるけれど、わたしが上に立つことを非難するような声はありませんでした。快く受け入れてくれましたね。

松田笑子(まつだ えみこ)
1976年東京生まれ。1997年、コードウェイナーズ・カレッジ(現ロンドン・カレッジ・オブ・ファッション)に入学。同年、フォスター&サンの見習いに。2001年、社員として登用される。05年、日本のトランクショーの責任者になる。10年あたりから師匠のテリー・ムーアに代わり、工房を牽引する存在に。20年に独立、ビスポークシューメーカー、エミコ マツダを創業。


【問い合わせ】
EMIKO MATSUDA Bespoke Shoemaker
+44(0)7796-315-067
info@emikomatsuda.co.uk
@emiko.matsuda
 

Photo:Shimpei Suzuki
Text:Kei Takegawa
Edit:Ryutaro Yanaka



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