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FASHION 百“靴”争鳴

【テリー・ムーアの後継者】女性ビスポーク靴職人、松田笑子の物語。 Vol.1

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百靴争鳴。日夜美しい靴作りに情熱を燃やし合う、異色の靴職人たちへのインタビュー集。

英国ウエストエンドのものづくりをいまに伝える

イギリスが誇るビスポーク工房、フォスター&サン。生ける伝説といわれるテリー・ムーアの後継者としてこの工房を率いてきた松田笑子が2020年4月、独立を果たしました。頂点までのぼりつめた松田さんですから一筋縄ではいかない女性を想像していたのですが、名前そのままのやわらかな笑顔ばかりが印象に残る数時間でした――

若さゆえの衝動以外のなにものでもありませんでした

(フォスター&サンの)見習い時代は靴修理のアルバイトで生計を立てました。3年くらいでしょうか。有機溶剤が充満する狭苦しい部屋で日がな一日。最近、物忘れが多くなったのはきっとそのせいです(笑)。

そんなわけでお話しする内容には不確かなところがあるかも知れませんが、ご容赦ください。

学校を出たわたしは虎屋に就職します。和菓子が好きだったんです。日本を代表する和菓子の老舗ですからね。社員教育も厳しくてたいへん勉強になりました。

社会に出る一歩目としては申し分のない環境でしたが、いっぽうでこのまま和菓子を売り続ける未来は ちょっと想像のしにくいものでした。

3年勤めたわたしは1997年、21歳の年に渡英します。靴の学校のコードウェイナーズ・カレッジに入学するためです。

コードウェイナーズの存在を知ったわたしは靴をつくってみたいって思ったんです。

わたしは足が大きくて、足長はだいたい 25〜25.5㎝を行ったり来たりしています。横幅もあります。履きたい靴が履けない、というストレスをずっと抱えていました。

そのころのわたしはビームスに置いてあった(ジョージ)クレバリーのパンフを持ち帰ったりしていますから靴づくりに興味があったのは間違いがありません。ただ、おっしゃるように二十歳そこそこの女の子がひとり渡英する動機としては弱い。若さゆえとしかいいようがありませんね。

若さゆえ、を証明する事実ならいくらでもあります。

そもそもわたしは旅行でさえ海外に行ったことがなかった。それでいきなりイギリスで一人暮らしを始めようとしていたんだから無鉄砲にもほどがあります(笑)。

ネットがいまほど便利ではなかった時代とはいえ、調べようと思えば日本にも靴の学校があることがわかったはずです。わたしは渡英するためにお金を貯め始めるんですが、短くないこの期間、当時のわたしは それさえしていない。

そんなんだから、のちの師匠となるテリー・ムーアのこともちっとも知りませんでした。

たちまち師匠に出会う

半年ほど語学学校に通ってようやく入学したコードウェイナーズは正直、拍子抜けするものでした。授業の大半はデザインに関するものだったのです。靴づくりを学びたかったわたしはそうそうに出鼻をくじかれました。

落胆するわたしに友人が教えてくれたのがテリーでした。なんでもフォスター&サンというビスポーク工房の有名な職人らしいって。わたしはさっそく友人とともにワークショップを訪れました。

ワークショップに足を踏み入れた途端、わたしが探していたのはこれだったんだと うっとりしました。古めかしい空間に無数の木型。そのワークショップは、わたしがイメージする靴づくりの世界そのものだったんです。

テリーは日本の三越でトランクショーをしていたこともあって、わたしたちにとってもよくしてくれました。木型をはじめ、靴づくりに必要な道具一式も気前よくプレゼントしてくれました。そしていいました。「また遊びにおいで」って。

こうして見習いとしてフォスター&サンに通う日々が始まりました。

そのころテリーは60(歳)をちょっと出たくらい。跡継ぎを考えて何人か手元に置いて鍛えたようですが、だれも長続きしなかったみたい。そんなわけで、わたしが通い始めたころの見習いはわたしただひとりでした。とはいえ わたしを後継者にしようなんてことは思ってもみなかったんじゃないでしょうか。だってことあるごとに「日本に帰って結婚しろ」っていわれましたから(笑)。

念のために解説すれば、フォスター&サンは1840年に創業した現存するイギリス最古のビスポークシューメーカーです。顧客リストにはチャーリー・チャップリンやフレッド・アステア、クラーク・ゲーブルが名を連ねました。同業のヘンリー マックスウェルを傘下に収めたことでも知られますね。

母親が背中を押した

家族にはまったく反対されませんでした。

わたしは足も大きければ手も大きかった。母は常々、その手は職人仕事に向いているっていっていました。母は看護師として定年まで勤め上げた人。むしろ背中を押すようなところがあった。

父にしてみれば遠い国へ行ってしまう寂しさはあったと思うんですが、やっぱり反対はしませんでした。

反対はしないけれど、ずいぶんと驚かれました。というのも父の父、つまりわたしの祖父は下駄屋を営んでいたんです。父が幼いころに廃業したようなんですが、その話は聞いたことがあったし、我が家には桐の台や鼻緒があった。にもかかわらず、父にいわれるまでその事実を自分ごととして考えたことはありませんでした。

社員として採用されることが決まったときも、両親の反応は変わりませんでした。思うようにやったらいいという感じでした。

松田笑子(まつだ えみこ)
1976年東京生まれ。1997年、コードウェイナーズ・カレッジ(現ロンドン・カレッジ・オブ・ファッション)に入学。同年、フォスター&サンの見習いに。2001年、社員として登用される。05年、日本のトランクショーの責任者になる。10年あたりから師匠のテリー・ムーアに代わり、工房を牽引する存在に。20年に独立、ビスポークシューメーカー、エミコ マツダを創業。


【問い合わせ】
EMIKO MATSUDA Bespoke Shoemaker
+44(0)7796-315-067
info@emikomatsuda.co.uk
@emiko.matsuda
 

Photo:Shimpei Suzuki
Text:Kei Takegawa
Edit:Ryutaro Yanaka



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