探偵という仕事をしていると、本当に色々な依頼が来るのだが、ある時、兄弟の相続問題を抱える依頼者から、風変わりな依頼が来た。
「私の父と公証役場に行き、署名、捺印させてほしい」
代理人を通じて連絡してきた依頼者の40代女性は、どうやら弟と、父親が亡くなった後の財産分与を巡り、熾烈な戦いを繰り広げている様だった。
父親は、近畿地方のある豪族の末裔で、先祖代々から受け継ぐ広大な土地と、立派な屋敷などの財産を所有しているという。
母親が8年ほど前に亡くなった後、父親が一人で生活していたが、数年前から認知症気味となり、広い屋敷内での独居が心もとなくなった。しかし、姉である依頼者は、仕事で海外を飛び回り、父親の面倒を見ることができず、弟も、父親と同居するのは難しいという。
そこで、姉弟は、父親を東京港区に所在する、食事付きの高齢者向け超高級マンションに住まわせることにした。
転居後すぐ、弟が父親を訪問し、上手く父親を誘導。自分の相続分を多くするような遺言書を書かせ、父親を連れて公証役場に出向き、相続時に法的効果のある「公正証書遺言書」を作成してしまったのだという。
姉は、数か月前、たまたま帰国して父親を訪ねた際に、部屋の本棚に無造作に置かれていた遺言書を見つけたのだそうだ。
「弟は、『姉さんは、独身で好き勝手に生きているが、自分は養うべき家族がいる上に、事業が上手くいっていない』と泣きついて、遺言書を無理やり書かせたようです」
依頼者の代理人の男性は、そう言いながら、依頼者から預かった父親の身分証明書と実印を我々に手渡した。
依頼者も弟と同様に、認知症気味の父親をうまく誘導し、遺産取り分を自分に有利になるよう書き換えさせたのだった。
「公正証書遺言書」は、遺言者である父親の他に、2名の承認が必要になる。
完成させるためには、遺言者と証人2名の計3名の署名捺印が必要なのだ。つまり、依頼者は、弊社に証人となる2名を用意しろというのだ。
それに関しては問題なかったが、それ以外に大きな課題があった。
新しく「公正証書遺言書」を作成する際に、認知症気味の父親が、もしも万が一、自分自身で「氏名・生年月日・住所・職業」を正確に伝え、内容に関する公証人からの質問に答えることができなければ、遺言書は受理されず、後見人を立てることを余儀なくされる。
そうなると、遺言状を差し替えられないばかりか、今度は、誰が父親の後見人になるかで弟と揉めることになるという。
都心から車で2時間半以上はかかる港町の公証役場へと旅立つ朝、我々は、父親の住むマンションの玄関前に車を停めた。
すると、約束の時間ぴったりに、70代後半と思われる痩せた白髪の紳士が、清潔そうな薄いブルーのYシャツと、ベージュ色のパンツ姿で、玄関先に現れた。
その紳士にゆっくりと近づき、「『越智 勲』(仮名)さんでしょうか?」と呼びかけると、依頼者の父親は
「はい。どうぞよろしくお願いいたします。お世話になります。」
と、丁寧にお辞儀をしながら挨拶をした。
依頼者の父親と隣り合わせて、車の後部座席に乗り込み、
「道中長くなりますが、越智さん、どうぞよろしくお願い申し上げます」と、声をかけたところ
「『いさむ』と申します。どうぞ『いさむ』とお呼び頂いて大丈夫です」
と、意外にも、下の名前で呼ぶことを希望した。
依頼者の代理人からは、
「父親が公証人でしっかりと、必要な内容を答えられるように、公証役場に着くまで、きっちり練習させてくれ」
と言われていた。しかし、いきなりスパルタ練習を始めるのは失礼だと感じた。
そこで、まずは世間話から始めることにした。
会話のなかで浮かび上がる、老紳士の哀しき日常とは……。後編に続く。
TEXT:探偵 こころたまき