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FASHION 百“靴”争鳴

【アナトミカ】東日本橋にある仏のセレクトショップを知ってますか?
〜寺本欣児の物語Vol.4〜

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百靴争鳴。日夜美しい靴作りに情熱を燃やし合う、異色の靴職人たちへのインタビュー集。

ピエールも難色を示した東日本橋という立地にもかかわらず、アナトミカ 東京は目の肥えたカスタマーで連日賑わう店に。

じっさい、取材当日は平日の昼日中でしたが、途切れることなくお客さんがやってきました。

勇を鼓してアナトミカへ

ぼくは阪神淡路大震災を機に上京した。(本国の)アナトミカがオープンしたのは そのすこし前のことだった。冷やかしがてら のぞいたぼくは目を見開いた。おなじみのオールデンの隣に飾られていたのはドイツのバークマンだったんだ。バークマンはウッドサンダルの国民的ブランドだ。つまり、ドイツでは珍しくもなんともない。ありふれたブランドながら、コンフォートシューズの国に認められたサンダルだけあって設計思想は申し分がなかった。バークマンをバイイングするそのセンスに ぼくはすっかりしびれてしまった。

日々の仕事をこなしながらもピエールのことは頭から離れなかった。ケンペル(ドイツ最古の作業着メーカー)でひと山当てたりロッキーマウンテンフェザーベッドの商標を買ったりしていた頃合いだね。

勇を鼓して売り込みに向かったのは2006年のこと。はじめはアシスタントにいかせたんだけどさ、古めかしいフランス語で体良く断られたっていうんだ。門前払いが2回続いて、これじゃ埒が明かないと みずから乗り込んだ。

用意したアイテムは、ブルックス ブラザーズのアメリカ最後の下請け工場でつくったボタンダウン。生地はもちのろんでブルックス ブラザーズと蜜月の関係にあったダンリバー社製。渾身の一着だ。ところがピエールはシャツには見向きもしないで ぼくが穿いていたデニムに引き寄せられてしまった。

そのデニムはUS.ネイビーのアーカイブをベースにつくった、ノーシームのファイブポケットだった。

当時のピエールはアメリカなるものから距離を置いていた。猫も杓子もアメリカ、アメリカとうるさい時代だったからだ。でもその魅力には抗えなかったんだろう。ぼくとしてはシャツをみてもらいたかったんだけどね(笑)。

ピエールのリクエストすべてに応えた一本が日の目をみるのはなんと売り込んだ2年後だ。しかし苦労の甲斐あって売れに売れた。それまでアナトミカではデニムを扱っていなかったこともあって、初回発注分の100本は あっという間に売れ切れた。何百本もリオーダーが入って、卸すことも決まった。

いいものをつくった自信はあった。けれど極東のだれとも知れない人間がつくったところで相手にされない。お尻のタグにアナトミカの“A”が入るだけで注目度はうなぎのぼりになる。このデザイン、コンストラクションとアナトミカというブランドがセットになることで未来永劫残るかも知れないと思った。それにぼくならアナトミカを大きくすることができるという自信もあった。

こうしてぼくはアナトミカを一緒につくっていくことになったんだ。

日本の聖地、誕生

もともとは神宮前に事務所を構えていた。ほら、ファッションピープルの密度が高いでしょ。疲れちゃったんだよね。浅草橋のカバン屋との打ち合わせだったかな。ここを通ったのは。なにかを感じて思わず車を停めた。江戸通りの下を神田川が流れていて、ほとりに背の低いビルが軒を連ねている。その街並みをみて、ほっとする自分がいた。

マーケティングはもちろん、パターンや縫製の部門もまるっと集めた。そのビルの名はSビル。自給自足を意味する“Self-sufficiency”の頭文字をとったというわけだ(生産などの裏方は2018年に川を挟んだ向かいのビルに移した。右肩上がりの成長で手狭になったためだ)。

盟友のためにとっておいたのが1階だった。

ピエールが来たときに(ここでアナトミカを)やろうよっていった。え〜っていわれたけれど、有無をいわさず実行に移した。だってうるさいんだよ。青山は近いのか、銀座にはどうやっていくんだって(笑)。

ぼくはさっそくルイス(ルイス・フライレ・アメストイ。ピエールの片腕の建築家)を呼んで設計させた。寸法を測ったら、その足でホテルに帰って手描きの製図を完成させてくれたよ。当時すでに78(歳)だからね。そこはやっぱりアナログだね(笑)。

ピエールが二の足を踏んだ店だっけれど、聖地的な扱いになってさ、週末なんてスタッフみんながお客さんにつきっきり。おかげさまで好調だよ。

店づくりは背筋が伸びるデザインを心がけた。ほら、むかしの洋服屋って敷居が高かっただろ。ぼくなんかも目当ての店に入る前には深呼吸してから門を叩いたもんだ。そういう緊張感って悪くないと思う。

お互いがかけがえのない存在に

ピエールはいつの間にやら「オウ、マイ、キンジ」と呼んでくれるようになった。618(シームレスを特徴とするくだんのデニム)やラグラン袖のコートなどかれこれ20点はつくってきたが、ワクワにかぎらずどれもこれも一筋縄ではいかなかった。音をあげなかったご褒美だね。

ぼくはぼくなりに芸の肥やしになると思えば骨身を惜しまずどんなものやことに取り組んできたけれど、ピエールは別格だ。ずいぶん長い付き合いになるけれど、いまでもそうくるかと意表を突かれることがある。

ピエールとはもうずっと夕方になると毎日のようにネット会議。2時間、3時間はザラだね。

もう少しはやく出会っていたら もうちょっとなんとかできたんじゃないか、という忸怩たる思いはある。おんなじような出自でかたや世界のアニエス・ベーだからね。ピエールには、それだけの才能があった。

聖地が10周年を迎える

気づけばあっという間に57(歳)。引退宣言した60まであと3年しかない。いまとなっては やりたいことがまだまだあるから前言は撤回しちゃうだろうね(笑)。

近ごろの60はまだまだ若い。常連のイケている花屋の主人なんて当年とって74だけどピンピン冴えさえだからね。

彼はぼくにこういった。「60年はやりなさい。ぼくもあと10年はやる」って(笑)。ぼくは25で独立したからそこから計算すれば85まで、ということになる。

どこかで社長職を譲るにしても、なんかしらやっていきたいね。

ぼくの頭のなかを占めているのは、アナトミカを通して日本のものづくりの魅力を伝えること。これに尽きる。さしあたって革靴を完成させたい。

革靴はじつはすでに7年かけてつくっているんだ。試行錯誤を繰り返して、ようやく95点のところまできた。やっぱり木型には苦労したね。羽根まわりのパターンは最後は自分で引いたよ。この店(アナトミカ 東京)の10周年アニバーサリーモデルの目玉にするつもりだ。

どんな靴なのかって? それはリリースまでのお楽しみだよ(といいつつ、サンプルをちらりとみせてくれた。いわれてみればなるほどたしかに欣児さんがつくるなら、これしかないだろうと思う一足だった)。

アニバーサリーモデルはほかにも色々仕込んでいるんだ。ピエールにもフランスで ふたつくらいつくってよって頼んでいる。楽しみにしていてよ。

寺本欣児(てらもと きんじ)
1964年兵庫県生まれ。金万などでキャリアを積んだのち、1989年の夏に35 SUMMERSを創業。ロッキーマウンテンフェザーベッド、マイティーマック、ビッグヤンク、ブランギン・ドラゴンを復刻する。2008年にパリのコンセプトショップ、アナトミカのオリジナルレーベルの共同開発をスタート。2009年にスニーカーブランド、ワクワをローンチ。2011年、アナトミカの日本初のフラッグシップストアを東京・東日本橋にオープン。現在はアナトミカ(札幌、名古屋、神戸、青山、福岡)とアール(東日本橋、鎌倉、吉祥寺)の2業態を展開する。

【問い合わせ】

アナトミカ 東京
東京都中央区東日本橋2-27-19 S-building
03-5823-6186
営業:13:00~20:00
定休:火
http://anatomica.jp/stockist.html#tokyo

Photo:Shimpei Suzuki
Text:Kei Takegawa
Edit:Ryutaro Yanaka



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