FASHION 百“靴”争鳴

集めたヴィンテージは5000点超! アナトミカの寺本欣児インタビュー。

百靴争鳴。日夜美しい靴作りに情熱を燃やし合う、異色の靴職人たちへのインタビュー集。

アナトミカの右腕が右腕に足る青年に成長するまでの青春立志篇。

その無鉄砲っぷりはまさに青春立志篇というべきものでした。その頃の思い出を寺本欣児さんが語ります。

着道楽の父とお針子の母のもとに生まれて

ぼくは兵庫県の田舎で生まれ育った。母は縫製の仕事をしていた。父は舶来物を誂える着道楽だった。そんなわけで自然とファッションの世界に興味をもつようになったね。

とっかかりは御多分に洩れずデニムだ。雑誌『POPEYE』に掲載されていたリー(Lee)はとりわけ印象に残っている。あのポケットのステッチには しびれた。そこは母の影響だろうね。ほどなくアメリカのプロダクトを追いかけるようになった。

高校を卒業すると迷うことなく洋服屋で働きはじめた。梅田にあったスタジオ・フロンティアというセレクトショップだ。ここでぼくは人生を左右する出会いを果たす。それがマリテ + フランソワ ジルボーの前身ブランド、クローズド。ペダルプッシャーという自転車乗りのための丈の短いデニムにぼくの目は釘づけになった。アメリカの5ポケットしか知らなかった人間には衝撃以外のなにものでもなかった。おんなじ生地でもパターンひとつで こうも変わるものかと感銘を受けた。

よし、パタンナーになろうと決めて家屋基礎工事の住み込みの仕事をはじめた。文化服装学院に入るための軍資金稼ぎだ。

これがなかなかに辛かったけれど、なんとか元手ができたぼくは 米軍のダッフルバッグひとつもって上京した。

東京へ向かう足は我が愛車、YAMAHAのSR。単気筒のBSAやノートンに憧れていたぼくはセパハン(セパレートハンドル)のカフェレーサー仕様にカスタムしていた。

東名の富士ICあたりで雪に降られ、顔がものすごく痛かったのをいまでも覚えている。半ヘルにゴーグルだったからね。そのとき着ていたのはMA-1、501XX、そしてレッド・ウィング。で、バンダナを巻いていた。

念願の文化服装学院に入学するも、パタンナーとしての才能がないことに早くも気づかされた。見切りが早いぼくはストックマンの面接を受けた。マリテ + フランソワ ジルボーの輸入元だ。

勇躍面接に臨むと、代表の金子順持さんはいった。「どうやら君はアメカジが好きなようだから、弟の会社で働いたらどうだ。あっちのほうが君の好みにあうと思う。紹介してあげるよ」って。アメカジが三度の飯より好きなぼくにしてみれば願ったり叶ったり。迷うことなく弟の誠光さんが取り仕切っている金万に世話になった。

そのときのことはいまでも忘れられないね。誠光さんは ぼくに会うなりこういったんだ。「君が野菜のようにデニムをぽんぽん売る男か」。梅田で働いているころのぼくは、たしかにくだんのクローズドをかなりの数売った。同時に3人を接客したこともあるね。東京でも評判になっていたなんて、とっても光栄だった。

そうして1985年にキラー通りにできた金万肝いりの店、ハリスで働かせてもらった。ぼくはそこに運命の赤い糸をみる。業界人なら先刻承知のとおりハリスはピエールがかつて手がけたエミスフェールの姉妹店だったんだ。

ハリスは1980年にパリ・レアール地区にオープンしたフレンチトラッドの嚆矢。当時の雑誌にはこんな風に紹介されている。曰く──ツイードのジャケットひとつとっても生地の見本帳をみるように豊富である。

60の夏まで働くと決めて、35 summersを屋号に

ハリスに立つようになってそうそう、2ヵ月の休みをもらって夏にアメリカへいった。なにをやるにしてもまずはアメリカをみておく必要があると考えたんだ。自分なりにファッションの本物はアメリカにあると、そう信じていたからね。アルバイトだったからそこは融通がきいたんだ。

グレイハウンドバス(アメリカの長距離バス)を乗り継いで、ロサンゼルスからニューヨークまで。かなり派手にやったね。

社員じゃなかったのかって。そうだよ。だってそんなことは些細なことだからね。社員であろうがアルバイトであろうが やりたいことは変わらない。

アメリカにわたって、具体的になにを学んだ、というんじゃない。広大なアメリカを前にして、ぼくは まだなにものでもない自分のちっぽけさを痛感しただけだった。アメリカでの経験はのちの人生において かけがえのない財産になった。

そのころのぼくは、自分というものを持て余していた。だれもが通る道に迷い込んだぼくは足掛け1年くらいハリスで働いたあとは系列のバー、C.O.Dに移ってバーテンをやった。合間には客のツテで古着屋にも立ったね。夜な夜なそのバーに集まったのは現在の日本のファッション業界を代表する奴らばかり。刺激的な毎日だった。

そろそろ次の一歩を踏み出そうと思って神戸へ戻った。地元の輸入卸で実務のノウハウを学んで独立したのは25(歳)。60(つまり35年後)の夏まで商売をすると決めて屋号を35 summersとした。開業したのは夏の暑い日だった。

アウトドアショーにいっては面白いものをみつけて売っていた。ところが売れると大手が横取りするんだ(当時引っ張ってきたブランドを尋ねると、いまでもファッションシーンをリードするブランドもあってその目利きぶりに舌を巻いた)。

腐っていたら、現地で知り合ったアメリカ人が「自分でつくれよ、おれが手伝ってやるから」っていうんだ。その気になって立ち上げたのがエンシェントフォレストだ。いくつものヒット商品が出たね。六畳一間にかみさんとふたりで暮らしていたころで、ちゃぶ台や布団の横に山のように在庫が積まれていた。来る日も来る日も出荷に追われてね。

仕事が軌道に乗って金に余裕ができると、本格的にヴィンテージを買いあさるようになった。集めたヴィンテージはいまや5000をくだらない。アトリエにもあふれていて困ったもんだよ(笑)。

Vol.3に続く。

毎週金曜公開予定。Vol.1はコチラ

寺本欣児(てらもと きんじ)
1964年兵庫県生まれ。金万などでキャリアを積んだのち、1989年の夏に35 SUMMERSを創業。ロッキーマウンテンフェザーベッド、マイティーマック、ビッグヤンク、ブランギン・ドラゴンを復刻する。2008年にパリのコンセプトショップ、アナトミカのオリジナルレーベルの共同開発をスタート。2009年にスニーカーブランド、ワクワをローンチ。2011年、アナトミカの日本初のフラッグシップストアを東京・東日本橋にオープン。現在はアナトミカ(札幌、名古屋、神戸、青山、福岡)とアール(東日本橋、鎌倉、吉祥寺)の2業態を展開する。

【問い合わせ】

アナトミカ 東京
東京都中央区東日本橋2-27-19 S-building
03-5823-6186
営業:13:00~20:00
定休:火
http://anatomica.jp/stockist.html#tokyo

Photo:Shimpei Suzuki
Text:Kei Takegawa
Edit:Ryutaro Yanaka



RANKING

1
2
3
4
5
1
2
3
4
5
AND MORE