探偵という仕事は、調査対象者と直接対峙する機会は多くはない。しかし、依頼内容によっては必要になることがあり、それによって、思いもよらない危険に遭遇することがある。 実際に私は、この事件で刃物を持った男に首を絞められるという、いまでも身の毛がよだつ経験をした。
「日本にいる従兄弟を探して、相続を放棄させたい!」
それは、弊社の台湾台北営業所を通して、台湾人男性から寄せられた依頼であり、複雑な相続問題が絡んでいた。
依頼内容は次の通りである。
依頼者の母方の叔母が亡くなり、広大な土地が遺産として残された。
叔父もすでに亡くなり、二人の間には子供はいない。叔母の姉である依頼者の母親も亡くなっている為、第一相続人は、依頼者と依頼者の2人の兄との、3人だけのはずであった。
それが、遺産相続の準備中のために入手した亡くなった叔母の戸籍謄本から、依頼者は、ある事実を知ってしまった。
叔母は、60年ほど前に、日本人男性と結婚し、2人の間に息子をもうけていたのだ。
台湾の民法でも、以下のように相続人については定められている。
「遺産相続人は配偶者(妻・夫)を除き、左の順序で定める。 一、直系卑属。(子・孫)二、父母。三、兄弟姉妹。四、祖父母であり、第一順位の相続人は、親等の近い者を先にする」
となると、第一相続人は、当然、亡くなった叔母の「直系卑属」である、日本にいる息子という事になる。つまり、このままだと、叔母の遺した広大な台湾の土地を相続する権利が依頼者とその兄たちにはないということだ。
「叔母は、離婚して、旦那と子供を日本に残して台湾に帰ってきたようだが、親族の誰も、その息子について知ってる者がいない。 何とか叔母の息子を探し出して、相続放棄してもらえるように交渉してくれないか?」
なんと身勝手な依頼かと思ったが、どうやら依頼者らは、自分たちが相続した後は、その土地を売却し、その利益の1部を、相続を放棄した叔母の息子にも後から渡すつもりだという。
——確かに、日本にいる第一相続人が、台湾遺産相続手続きを進めるのは骨が折れそうだ。交渉する価値はあるのかもしれない。
そう考え、弊社は依頼を引き受けることにした。
後日、台北営業所より、依頼者からの郵便が弊社に転送された。 その中には、第一相続人である叔母の息子の名前と昔の住所などが記載された戸籍謄本と、台湾で使われている「相続放棄申述書」が同封されていた。
つまり、この「相続放棄申述書」に、第一相続人である依頼者の従兄弟に署名、捺印させなくてはならないわけだ。
我々は、戸籍謄本に記載されていた住所を手掛かりに、数々の調査を重ね、約2か月後に、ようやく第一相続人の現在の住所に関する情報に行き着いた。
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第一相続人は、「太田至誠」(仮名)、年齢は65歳位で、東京都足立区にある、古いマンションの一室に住んでいた。
通常ならば、調査対象者と直接対峙し、交渉するような場合、何かあった時のためにも、2名以上で訪問することが基本である。何故なら、調査対象者がどのような人物か不明であるからだ。
しかし、その頃、たまたま依頼案件が幾つも重なり、人手が足りなかったこともあり、自分一人で、第一相続人の住むマンションを訪れた。
先ずは、念のため、マンションの同じ5階フロアーの住人に聞き込みをして、第一相続人がどのような人物であるか、情報を集めることにした。
すると、住民たちの口からは、次のような言葉が聞こえてきた。
「夫婦お二人で住んでるんだけど、ご主人が一切外に出てこないのよ。 奥さんはね、60歳くらいの普通の人で、朝、仕事に行ってるみたいだけど」
「あそこのご主人、変な人っぽいのよ。部屋の中から、夜中にギターを弾く音がしょっちゅう聞こえるし、時々奇声を発したりして、ちょっと気持ち悪いのよね。あんまり関わらない方がいいわよ」
「あの家は、管理組合にも入らず孤立してるんだよ。旦那がちょっと精神的におかしい人なんではないかな? 女性一人で訪ねるのはやめたほうがいいよ」
「変人」「精神的におかしい」等、第一相続人について、好ましくない評判が次々に住人から上がる中、直接交渉への不安は高まるばかりであったが、かといって、このまま引き下がる気持ちにもなれず、勇気を出して、第一相続人の住む501号室の前まで来た。
近づいてみると、入口の扉が15㎝ほど空いており、チェーンがされたまま、下方に木片のようなものが挟んである。
15cmの隙間から、思い切って、中に向かって声をかけてみた。
ドアの向こうにいる人物がとった、衝撃の行動とは……。後編に続く。
TEXT:探偵 こころたまき