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FASHION 百“靴”争鳴

ナイキとニューバランスを発掘。靴に人生を捧げた男のアメリカ珍道中

百靴争鳴。日夜美しい靴作りに情熱を燃やし合う、異色の靴職人たちへのインタビュー集。

チヨダでキャリアを積んだ長嶋さんが いよいよ羽ばたくときがきました。

アメリカ最大のチェーン、トムマッキャンを日本に広め、そしてドレスシューズの名店、トレーディングポストをオープンしました。

12坪で年商1.2億円を達成

舟橋さんから勅命がくだりました。

「トムマッキャンが上陸することになった。本気で来られたら ひとたまりもない。おまえ、ちょっと偵察してこい」

ぼくはさっそく三菱商事と月星化成の合弁で設立された会社に赴き、サンプルを拝見させていただきました。ドレスは出来が悪かったけれど、ワークシューズやアースシューズは なかなかのものでした。カジュアルに特化してやったら面白いんじゃないかと、ぼくは自分の立場も忘れてこんこんと説きました。向こうはこの手の靴のイロハがわからない。一緒にやりましょうとなった。

舟橋さんに「好きにやれ」と言われたので、売り上げが芳しくなかった京都の河原町の店を改装してトムマッキャンに。75年のことです。売り場にはトムマッキャンのカジュアルラインに加えてヴァックスを並べました。

これが ことのほか注目を集めました。増床のタイミングで声がかかって、よく76年には阪急ファイブの7階にも店を出しました。スティーブ・マックイーンが乗っていたようなオートバイ、カンナで削った柱、フォークを突き刺した藁の山。アメリカをイメージした店づくりも評判になり、全国から視察がやってきました。そのころのぼくはまだ、アメリカの地を踏んでいません。それは頭のなかにあるアメリカでした。

阪急ファイブの店は12坪で1.2億円を叩き出しました。大成功を収めたぼくはトムマッキャン・サイドからアメリカで勉強してきたらどうですかとお誘いを受けました。本社に招待するというんです。舟橋さんに相談したら怒られました。「なにを考えているんだ」と。ぼくにとってはよかったのか悪かったのか、危うく引き抜かれるところでした。

ナイキとニューバランスを発掘

自信満々だったその店をクサす人がいました。ヴァンの広告をやっていた犬飼(笠介)さんです。彼は言うんです。いまのアメリカはこんなんじゃないよって。

「よかったら東京においで」というのでついていきました。引き合わせてくれたのが木滑さんと次郎さんでした。そのころは読売新聞社で『スキーライフ』をつくっているころだったんじゃないかな(うんちくばかりのスキー雑誌のなかで『スキーライフ』はまさに異端の存在だった。創刊号の特集はコロラドのアスペン。オリンピック招致を住民投票で拒否した顛末を伝えていた)。

次郎さんの古巣の野村ツーリストを紹介してもらったぼくは、チヨダと月星化成から参加者を募ってアメリカへ飛びました。

はじめてのアメリカでしたが、降り立ったその国は とてもはじめてとは思えなかった。ぼくは記憶を辿って既視感を覚えた理由を探りました。ああ、そうかそうか。それは義母に連れられて通ったPXでした。ぼくは懐かしさで胸がいっぱいになりました。

ぼくは滞在先のひとつ、ロスのウエストウッドでふたつのスニーカーに出会います。ひとつがナイキ、もうひとつがニューバランスです。

©GettyImages

ナイキは日本製と知って驚き、その読み方をめぐって ぼくら一行は紛糾しました。「ニケか?」と、ひとりが言った。「ニコンはアメリカではナイコンと呼ばれるらしいから、ナイケじゃないか」って言うのもいた。ぼくは閃いた。「あ、大陸間弾道ミサイルのNIKEは ナイキと呼ぶじゃないか。きっとナイキだよ」。はたして正解でした。

78年にはナイキのあるオレゴンまで旅しました。グレイハウンドバスでサンフランシスコからオレゴンまで夜通し走り続けた。いい思い出です。

ニューバランスは ひと目で面白いスニーカーだなと思って買って帰った。それがのちのニューバランスジャパンの社長、倉田(修平)さんの目にとまりました。

帰国の途につくぼくらは みんながみんなラグビージャージにダウンベスト、501®、そしてレッド・ウィングという出で立ち。まさに骨抜きにされた格好でした(笑)。日本人が501®の“ご”の字も知らない時代。ダウンベストでキメた日は十中八九、なんで救命胴衣なんか着ているのと笑われたものです。

300店舗達成記念に店をアメリカ靴一色に

1982年にチヨダは店舗展開数300店舗を達成しました。これを記念してアメリカ靴のフェアをやろうとなった。

ぼくはカタログやらPOPやらをつくるのにリアルな絵が欲しいと思った。稟議を通していたら いつになるかわかりません。身銭を切って、カメラマンを連れてアメリカに乗り込みました。大学のキャンパスや街でシャッターを切りまくりました。

靴はロスで靴屋さんを営んでいるスタンレー・アドラーさんにお願いして、並行輸入のかたちでバスやティンバーランドを揃えました。

自腹はもとより覚悟の上でしたが、会社は経費として認めてくれました。つくづくいい時代でした。

84年にはアメリカの名だたる工場も訪れました。いま思えば、なにを見てもすごいとしか言っていなかったような気がする。コーチのグローブレザーで知られるサルツやホーウィンといったタンナーも見学させてもらいました。

赤プリで商品発表会。ゲストは伊丹十三

ときは前後して83年、ペダラの話が持ち込まれました。アシックスがフィールドで培ったテクノジーを応用したコンフォートシューズですね。

聞けばプロデューサーとして関わってくれないか、というものでした。社員との二足の草鞋は無理です。舟橋さんに相談すると、「しょうがない。1年は給料を出すから、うちの面倒も見ろ」と言いました。顧問という立場でチヨダに携わりつつ、いよいよ自分の足で立つことになりました。

ペダラの打ち合わせはチヨダの本社でやっていました。やっぱり牧歌的な時代です。

コンセプトはスポーツ終わりにくつろぐ靴。とくればトラッドシューズでしょう。ぼくはグッド(イヤーウェルト)の工場でサンプルをつくりました。

「PRも面白いことがやりたい。いい会社はないか」と相談されたのでヴァンの広告部門がつくったシーカンパニーを紹介しました。(木滑さんや次郎さんとつないでくれた)犬飼さんつながりで付き合いのあった会社です。

商品発表会は赤プリ(赤坂プリンスホテル)。バブルの時代を象徴したホテルですね。伊丹十三さんにも登壇してもらいました。犬飼さんが宮本信子さんと小唄の仲間だったそうで、その縁で。

会見は盛況裏に幕を閉じましたが、いざ帰る段になってぼくは途方にくれました。街が一面銀世界だったのです。ぼくはアメリカで買ったばかりのジョンマー(ジョンストン&マーフィー)を履いて会見にのぞんでいました。

大切なジョンマーがダメになってしまう。エントランスで立ち往生していたぼくの目の前に車がとまり、窓が開きました。

窓から顔をのぞかせたのは犬飼さんでした。犬飼さんは言いました。「ぼくの車に乗っていかないか。送っていくよ」って。犬飼さんの気が変わったらいけない。ぼくは慌ただしく乗り込みましたが、犬飼さんは犬飼さんで万が一車が立ち往生したら ぼくに雪かきをさせる腹づもりだったとか(笑)。伊丹さんもたいへんだったようです。自宅の世田谷まで7〜8時間かかったと あとから聞きました。

トレーディングポストの誕生

ペダラのプロデューサーに就いたおんなじ年にトレーディングポストをつくりました。少なからずアメリカに通って得た知見をかたちにしようと考えたんです。聖蹟桜ヶ丘、新宿、成城と立て続けに店を出しました。

三菱商事と手を組んで神宮前にトレーディングポストを出したのは 91年のこと。もとはシーカンパニーが雨合羽とかを売っていた流行らない店でした。

ラインナップはアメリカとイギリスのミックスです。ちょうどイギリスが得意とするジョッパーブーツやサイドゴアブーツが売れていたころ。アレン・エドモンズやアンソーンをメインに、クロケット(&ジョーンズ)、トリッカーズ、エドワード・グリーン、アルフレッド・サージェントを差し込みました。

ヨーロッパも1973年には訪れています。国際靴見本市のミカムを視察するためです。それから年に2回は顔を出すように。見本市のついでにスペインやポルトガルといった遠からず注目されることになる産地にも足を運びました。

リーバイスとヴァンズでビジネスクラスに

三菱商事の社員で、のちにライフギアコーポレーション(靴の輸入販売を行う三菱商事の子会社)の社長となる宮本(博行)さんが日本に戻ることになりました。それまで宮本さんはカナダにおりました。

なにか面白いことをしたいと言うのでアメリカっぽいのやりましょうと提案した。目をつけたのがリーバイス®。当時流行りのライセンス契約を結びました。ライセンシーが三菱商事で、販売が月星化成、製造が宮城興業と安藤製靴、そして企画がぼくという役割分担でした。これが当たって儲かった。次にヴァンズをやって これまた大当たりしました。

格安チケットで飛んで、30ドルのモーテルに寝泊まりするのが常だった旅は、ビジネスクラスと400ドルのホテルへグレードアップしました。

順風満帆な日々でしたが、宮本さんがライフギアコーポレーションを離れるタイミングも重なって、2000年にトレーディングポストのブランド名、店名を売りました。

心機一転、ぼくにはやりたいことがあったのです。

最終回に続く。Vol.1Vol.2
毎週金曜公開予定。

長嶋正樹(ながしま まさき)
1945年12月28日栃木・宇都宮市生まれ。1966年、チヨダ靴店(現・チヨダ)入社。1975年、京都河原町にトムマッキャンをオープン。1983年、ペダラ(アシックス)の企画開発に参画。同年、トレーディングポストを創業。1999年、プラットグッドイヤー製法の特許を取得。2000年、山長印靴本舗(現・三陽山長)をローンチ。2005年、マークブラドッグを創業。2008年、新生プラットグッドイヤーの特許を取得。2010年、アメリカのスニーカーブランド、ボールバンドの商標を取得。2020年、BALL BAND YUKIGAYA STOREをオープン、オリジナルブランドをボールバンドに一本化。

【問い合わせ】
BALL BAND YUKIGAYA STORE
東京都大田区南雪谷1-4-10レオノーレ雪谷1F
03-6425-8154
営業:11:00〜19:00
定休:月火(祝日の場合は営業)
https://www.ballband-jp.com

Photo:Shimpei Suzuki
Text:Kei Takegawa
Edit:Ryutaro Yanaka



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