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FASHION 百“靴”争鳴

【東証一部上場チヨダのキーパーソン】紳士靴の昭和史、三億円事件の思い出も。

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百靴争鳴。日夜美しい靴作りに情熱を燃やし合う、異色の靴職人たちへのインタビュー集。

東証一部上場企業の切り込み隊長として、ことごとく先陣を切る Vol.2

靴好きが高じてチヨダに就職した長嶋さん。新米のころこそ苦戦したものの、ひとたび勝手がわかるといまでいうロードサイド店の走りの店を任されたり、関西進出の足がかりとなったり……といった具合に気づけばチヨダに欠かせない存在に。激動の昭和を走り抜けた長嶋さんは、あの大事件にも絡んでいました。

POP描きと引越しの手伝いで認められる

奥村くんが まるで古参の販売員のような地に足のついた接客を繰り広げるかたわら、ぼくはといえばビートルズのミシェルやガールが流れる紳士靴売場でおどおど突っ立っていた。セールストークは どうにも苦手でしたが、グッド(イヤーウェルト)やマッケイといった製法を知ることも靴を磨くことも面白かった。

靴への興味もさることながら、なんとか辞めずにすんだのは舟橋さんがぼくを励ましてくれたからです。目をかけてもらうきっかけはPOPでした。

昭和の時代は、子ども向けのスニーカーといえばキャラクターものばかり。鉄腕アトムやジャングル大帝レオの絵が甲のところに でーんとプリントされていました。ある日ぼくはそれらキャラクターを描いたPOPをつくって売場に飾りました。むかしから絵を描くのが好きだったんです。

店に来られた舟橋さんはPOPを一瞥すると、「この絵を描いたのは誰だ?」と声を張りあげた。怒られるもんだと恐る恐る手をあげたら、「うまいじゃないか。どんどん描け」と言われました。

家族の引越しを手伝ってぼくは さらに株をあげました。運送屋で働いていたこともあったからお手のものだったんです。

そのころの思い出といえばやっぱりリーガルですね。靴屋の納品は共配といって、組合が取りまとめる仕組みがあったんですが、リーガルは自前の配送態勢を整えていました。納品にやってくる兄ちゃんが着ていたスタジャンが しびれるくらいに格好よかった。レザー製で、背中にリーガルのロゴと いまは懐かしいブーツの絵が描かれていました。

三億円強奪事件

1968年、高円寺と中野で経験を積んだぼくは府中店の主任になりました。会社がいよいよ出店攻勢をかけた頃合いです。ぼくもようやく一人前になりかけていました。

忘れもしない12月10日。雨がしとしと降るその日、共配の兄ちゃんが店に駆け込んできました。そして息を切らしてこう言いました。「すごい事件が起きた」。日本を揺るがした あの三億円強奪事件でした。帰り道は辻々に警官が立っていて、街は物々しい空気に包まれていました。

ほどなく警官がやってきて、ぼくに尋ねました。「このブーツを売った男を覚えていないか」。見れば うちで扱っている弘進ゴムの半長靴でした。そう、犯人はそのブーツを履いて犯行に及んだのです。

ぼくは「記憶にありません」と答えました。まったく覚えがないから そう答えましたが、いま考えれば ぼくが売っていたのかも知れない。

郊外進出時代

八重洲地下街、池袋、十条、府中……、狙った東京の商業地をあらかた手中に収めた会社は次の出店地に郊外を選びました。ぼくは志木(埼玉)の店長に抜擢されました。まだ24(歳)か25のときだったと思います。

時代はベッドタウンの黎明期。購買欲旺盛なニューファミリーを相手に、来る日も来る日も目の回るような忙しさでした。大変だったけれど、働けば働いただけ売り上げが伸びていく。何年も予算をクリアして、優秀店長賞をもらいました。景品は南紀白浜の旅行チケット。母を連れていきました。

次に任されたのは池袋ホープセンターの店。なにがいいって、池袋は八重洲、三軒茶屋とともに独自仕入れが許された店だったんです。ときは いまでも業界で語り草になっているロングブーツ・ブームのころ。ストレッチブーツをはじめとしたブーツを大量に仕入れて、部下10人にハッパをかけて売りまくりました。

ぼくはもうひとつのブーツでもヒットを飛ばしました。

あさま山荘事件が起きた1972年の冬のある日、体の芯から冷えるような雪がしんしんと降りはじめました。家に帰るサラリーマンが難儀していると知ったぼくは とっさに子分の軍曹に電話しました。軍曹というのはもちろんあだ名で、自衛隊出身だから そう呼ばれていました。

軍曹は高田馬場の東洋ゴム工業の販社、ミドリヤ(のちのバートン)で働いていた。ぼくは「ありったけのゴム靴を持ってこい」と指示を飛ばしました。ゴム靴は大いに売れました。その雪、それから3日も続いたのです。

池袋の前任の店長は仲良しの森さんでした。奥さんの父親が築地の理事長をやっていて、遊びにいくと新鮮な魚介類がどっさり出てくる。家は立川にあったんで遠かったけれど、魚目当てによく遊びにいったものです。

この森さんが無類の遊び人で、ゴルフや麻雀にのめり込んで体を壊しました。そうしてお鉢が回ってきたというわけです。

関西出店がスタート

舟橋さんが池袋にやってこられました。用向きは関西への転勤命令でした。自由に仕入れができて、10人からの部下を抱える城のトップになったばかり。この城に未練がないと言ったらうそになります。うそになりますが、サラリーマンですからね。断る権利はありません。そんなわけでその年の5月、大阪の中百舌鳥へ。用意されたポストは一帯の店を見る母店長でしたが、じきに紳士靴バイヤーとして走り回ることになりました。

ここで ぼくはふたつの経験をします。ひとつはオリジナルシューズの企画生産、もうひとつがスニーカーのアドバイザーです。

関東ではそこそこ知られるようになっていたとはいえ、関西の人間にしてみれば チヨダは海のものとも山のものともわからない靴屋。おいそれとは売れ筋を回してもらえません。業を煮やしたぼくは自分でつくろうと思い立ちました。自分で絵を描いて、西成(大阪の靴産地)の小さな工場に足を運んでつくってもらった。直接やれば安いし、量もできる。いいことづくめでした。

おんなじころにヴァックスというスニーカーの取り扱いもはじめました。VAXと書いて、ヴァックスです。ほら、あのころはヴァン(VAN)が流行っていましたからね。アルファベット三文字のブランドはそこいら中にありました。

ヴァックスは ヴァンのスニーカーをつくっていた月星化成のブランドでした。いいものをつくったのにまったく売れなくて困っていると、ぼくのところにやってきたんです。そのスニーカーはヴァルカナイズド製法のバスケットボールシューズ。こりゃいい。ぼくは ひと目惚れしました。

惚れた以上は黙っていられません。ああでもない、こうでもないとデザインに口を出しました。

当時スニーカーといえばキュッパー(980円)の時代にヴァックスは3000円を超えていたんじゃないかなぁ。

背伸びをして『Made in U.S.A catalog』にも広告を出しました。『Made in U.S.A catalog』はのちに『ポパイ』を生む木滑(良久)さんと(石川)次郎さんが手がけた雑誌ですね。

Vol.3に続く。
毎週金曜公開予定。Vol.1はコチラ

長嶋正樹(ながしま まさき)
1945年12月28日栃木・宇都宮市生まれ。1966年、チヨダ靴店(現・チヨダ)入社。1975年、京都河原町にトムマッキャンをオープン。1983年、ペダラ(アシックス)の企画開発に参画。同年、トレーディングポストを創業。1999年、プラットグッドイヤー製法の特許を取得。2000年、山長印靴本舗(現・三陽山長)をローンチ。2005年、マークブラドッグを創業。2008年、新生プラットグッドイヤーの特許を取得。2010年、アメリカのスニーカーブランド、ボールバンドの商標を取得。2020年、BALL BAND YUKIGAYA STOREをオープン、オリジナルブランドをボールバンドに一本化。

【問い合わせ】
BALL BAND YUKIGAYA STORE
東京都大田区南雪谷1-4-10レオノーレ雪谷1F
03-6425-8154
営業:11:00〜19:00
定休:月火(祝日の場合は営業)
https://www.ballband-jp.com

Photo:Shimpei Suzuki
Text:Kei Takegawa
Edit:Ryutaro Yanaka



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