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FASHION 百“靴”争鳴

【三陽山長を作った男】靴愛ほとばしる、お仕事物語。

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百靴争鳴。日夜美しい靴作りに情熱を燃やし合う、異色の靴職人たちへのインタビュー集。

トレーディングポスト、三陽山長、ペダラ……。誰もが知るこれら店やブランドをことごとく手がけてきたのが、長嶋正樹。

その半生を振り返ってみれば、まさに日本の靴業界の歴史そのものでした。

PXが遊び場だった


浅田次郎の小説に『日輪の遺産』というのがありましてね。ぼくは これを懐かしく読みました。

この小説は旧日本軍が終戦間近に隠したとされる時価200兆円の財宝をめぐる物語です。舞台は陸軍火工廠多摩火薬製造所。近くには病院があって、競馬場がある、という描写が出てくる。小説では武蔵小玉市といっていましたが、間違いない、ぼくが育ったあの街、稲城市です。

ぼくは5人兄弟の3番目として宇都宮(栃木)に生まれました。父の弟夫婦のところへ養子にやられたのは3歳か4歳のころのこと。彼らには子どもがおりませんでした。

ぼくが知るかぎりでは妹が養女になるはずでした。ところがあるとき ぼくはおばあちゃんにこう尋ねられたんです。「東京いくか」って。おそらく「うん」って元気いっぱい答えたんでしょうね(笑)。

おじさんとおばさんが暮らす街はどんな都会なんだろうとワクワクしていったら、そこは山と川ばかり。一杯食わされたと思ったものですが、いきなりの人生の岐路はその後のぼくに大きな影響を与えることになるんだからわからないものです。

養母はPX(米軍の売店)で働いていました。幼子を置いて仕事にいくわけにはいきません。ぼくは養母に連れられてPXに通うようになりました。養母がなんの仕事をしていたのかは いまとなってはわかりません。

たしかな記憶は、そこは夢の世界だったということです。飲み物といえば瓶入りしかなかった時代に紙パックのジュースがあり、チョコレートを割れば中からチェリーが出てきた。クリスマスシーズンになればキラキラのオーナメントが もみの木を飾りました。

一日の大半はベッドだけの部屋にいて、遠くを走る列車を飽かず眺めていました。

ある日その部屋にアメリカ人の大男が入ってきました。ぼくもびっくりしましたが、彼も目を見開きました。敵もさるもの、すぐに立て直すと、「ハイ!」とよく通る声で言ってにっこり笑った。それからなにかを探して出ていきました。ぼくはといえば驚くほど長い脚を包む折り目の入ったカーキ色のパンツに目が釘付けでした。敗戦後の日本で、それはあまりにも格好よかった。

職員だった義母は安くわけてもらえるのでしょう。ふだんからリーバイス®にアロハシャツを着せられていたぼくは、近所で“ヤンキー”と呼ばれるようになりました。

7月4日の独立記念日には ぼくら子どもも招待されて米軍関係者と一緒に過ごしました。向こうの子どもと相撲をとって遊びました。

ヴァンリーガルに憧れて


中高生のころにヴァン(VAN)が社会現象になって、『メンズクラブ』や『平凡パンチ』が立て続けに創刊されました。幼いころの記憶が蘇って、あっという間にハマった。

高校は中退しました。いまのぼくしか知らない人には驚かれるけれど、そのころのぼくはやんちゃでした。やんちゃぶりは割愛させていただきますが、実母は今日こそは愚息の名前が出ているんじゃないかと 毎朝のように心を痛めながら新聞をめくったそうですから、推して知るべしでしょう。

養父母とも気まずくなって、豊島区の実家に転がり込みました(ぼくが小学校にあがる前に実父が亡くなり、実母は子どもを連れて東京に出てきていたのです)。

学校を辞めると職を転々としました。車が好きだったぼくがたどり着いたのは 江古田のガススタでした。仕事終わりにはガススタのトラックを走らせて下田まで遊びにいったものです。姉の旦那が日野(自動車)のコンテッサ(イタリアの巨匠、ジョヴァンニ・ミケロッティがデザインしたモデル)に乗っていて、これもよく借りました。

そこで出会ったのが靴の問屋さん。車も好きだけれど、ファッションも好きだったから、仲良くなると靴を卸値で売ってもらうようになりました。いまは亡き鈴梅製靴のカヌーマンとかね。カヌーマンはインディアンモカシンを得意とするブランドでした。

ぼくがもっとも欲しかったのはヴァンリーガルです。みゆき族がこぞって履いたヴァンとリーガルのコラボレーション・ラインですね。

そのころは丸井でヴァンを買うのがお約束でした。まだ月賦商売をしていたころで、毎月のように集金人がやってくる。世間体が悪いもんだから、母はいい加減にしなさいと、こぼしていました。

服は欲しいものが買えましたが、ヴァンリーガルだけは品薄で まず手に入らない。工場のあった足立区の千住大橋までいって B級品を漁ったりしたものです。

悶々としていたぼくに問屋の営業マンが こう言いました。「高円寺の靴屋が社員を募集しているよ」。社員になれば安く買える。ぼくは迷うことなく面接を受けました。

それがのちに東証一部上場を果たす、あのチヨダです。

二代目の舟橋(政男)さんの口癖は“日本一の靴屋になる”というものでした。当時はまだ、数えるほどしか店がなかったころ。面白い人だなぁと思ったものです。

車も服も好きだったのに、なぜ靴だったのか。そこに就職の口があったから、という打算的なものがあったのは否めませんが、いま考えれば、養父の影響があったのかも知れない。養父はお洒落なひとで、とりわけ靴が好きでした。白黒のコンビとか、玄関にずらりと並べた靴を磨かされたものです。真っ白なリネンの靴の汚れはチョークで隠すんだって教わりましたね。

チヨダにはガススタ仲間の奥村くんも一緒に入社しました。トラッドに詳しい男で、ファッションについては彼から教わったことも多い。奥村くんは婦人靴売場に配属されたんですが、売場に立ったその日から慣れた感じで接客していました。不器用なぼくとは大違いで はなはだ焦ったものです。そんな奥村くんですが、気づけばいなくなっていました。

Vol.2に続く。
毎週金曜公開予定。

長嶋正樹(ながしま まさき)
1945年12月28日栃木・宇都宮市生まれ。1966年、チヨダ靴店(現・チヨダ)入社。1975年、京都河原町にトムマッキャンをオープン。1983年、ペダラ(アシックス)の企画開発に参画。同年、トレーディングポストを創業。1999年、プラットグッドイヤー製法の特許を取得。2000年、山長印靴本舗(現・三陽山長)をローンチ。2005年、マークブラドッグを創業。2008年、新生プラットグッドイヤーの特許を取得。2010年、アメリカのスニーカーブランド、ボールバンドの商標を取得。2020年、BALL BAND YUKIGAYA STOREをオープン、オリジナルブランドをボールバンドに一本化。

【問い合わせ】
BALL BAND YUKIGAYA STORE
東京都大田区南雪谷1-4-10レオノーレ雪谷1F
03-6425-8154
営業:11:00〜19:00
定休:月火(祝日の場合は営業)
https://www.ballband-jp.com

Photo:Shimpei Suzuki
Text:Kei Takegawa
Edit:Ryutaro Yanaka



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