鞄の修理、注文靴、レザーグッズの販売、そして靴づくり教室にまで広がる
靴磨きから始まった西森さんの第二の人生は、「自分の人生を、自分でつくっていく」バイタリティとクリエイティビティで一国“三”城の主にたどり着きました。
後編は 都内に3店舗を構えるまでになった成長の軌跡について。
シューポリバレント
路上靴磨きを皮切りに、念願の店を西荻窪に構えたのは2013年。現在は西荻窪に2店、歌舞伎町に1店構えています。
メニューは靴、鞄の修理、注文靴、レザーグッズの販売、そして靴づくり教室にまで広がりました。なかでも当店の顔として全国的に知られているのはダンスコの修理。毎月数十足がもち込まれます。
靴磨きからどのようにして守備範囲を広げていったのか。順を追ってお話しさせてください。
満を持して靴職人の道へ
路上靴磨きからは3〜4ヶ月で足を洗いました。警察に追いかけられるようになったためですが(現在、靴磨きの路上営業は認められていない)、理由はそれだけではありません。もっと靴を知らなければという思いが芽生えたんです。
その日のお客さんは、履かれた靴を指差して、いい靴だろうといわれました。適当に相槌を打ってやり過ごしたんですが、そのころはロブもグリーンも知らなかった。これはいかんでしょう。
シューケアは数をこなせば たしかに腕があがる。それはそれで面白かったけれど、ビジネスとしての伸び代は期待できなかった。
靴づくりを教えてくれる学校をネットで調べて、浅草のサルワカ(フットウェアカレッジ)に入学しました。山口千尋さんが主宰する靴学校ですね。
体重が5キロ痩せた
もともと細かったのに、この時代に5キロは痩せました。なんせ不器用。思うようにつくれなくて眠れない毎日が続いたんです。はるか年下の同級生に囲まれて、プレッシャーは相当なものでした。
けれど、歯を食いしばって がんばっていると、少しずつできるようになってくる。できることが増えてくると、点が線になっていくような感覚を覚えました。靴づくりががぜん、面白くなってきた。なんやかんやと気にかけてくれた歳の近い同級生には感謝しかありません。
授業が終わると"クラブ愛本店"と西麻布の某会員制クラブで働きました。西麻布のほうはバーテンダーの募集があったんで、靴磨きができるバーテンですっ書いた履歴書を送りました。面接してくれた女性は腕を組んだまま、小首をかしげて「面白そうじゃない」って。ずいぶんと年下だったんですけどね(笑)。
バーカウンターで酒をつくりつつ、インカムを通して注文が伝えられると、靴磨きの道具をもってお客さまのところへ。これが大変だった。クラブのホールって暗いでしょ。磨き上がりを確認するのに四苦八苦しました。
面白いところでは(クラブも十分面白いんですが)、外資系自動車会社のイベントや日本プロゴルフトーナメントでも磨かせていただきましたね。
体育会系の靴修理会社へ
サルワカを卒業すると、仲間と工房をシェアするかたちで靴職人として独立しました。学生生活に400〜500万円は使ったんじゃないかな。当時久我山から通っていましたから交通費もバカにならなかった。
まだまだ未熟だったのは わかっています。でも、この投資は靴づくりで回収しないとと思ったんですね。蓋を開けてみれば注文が入ったのは1年で5足ほど。回収するどころか、日々の糧にも事欠く有様でした。
次に目をつけたのが修理です。 "クラブ愛本店"では修理も受けていましたが、靴づくりと修理は違いますから、専門の会社に出していました。将来的に見ても、靴がつくれて、磨けて、修理もできれば勝負できると考えました。
そこで修理をお願いしていた会社の社長に2年学んで店を出したいと伝えました。返事は「じゃ、1週間後に大阪へ来い」というものでした。工房を引き払い、道具をすべて実家に送って、取るものもとりあえず 大阪へ行きました。
ここでお話しするには はばかれる内容が多いので割愛しますが、いってみれば体育会系的なノリのある会社でした。むかしの話とはいえ、それを肯定するのは よくないって風潮があるのはわかっています。ただ、いまのぼくがあるのはこの時代、この会社の厳しさに耐えることができたから、ということは はっきりといっておきたい。
くだんの社長とは いまもお付き合いさせていただいております。機械の調子が悪くて相談したら、昨日も大阪からわざわざやってきて、メインテナンスしてくれました。コンプライアンス的には難があったかも知れないけれど、ハートがあった。
「ダンスコ」の修理ならお任せあれ
当店には全国から履き古した「ダンスコ(DANSKO)」が送られてきます。月に均せばコンスタントに20〜30足。「ダンスコ」はクロッグにヒントを得たアメリカ発のコンフォートシューズブランドですね。
ソールやトップリフトの交換、クリーニングなど さまざまなメニューを用意していますが、なかでもトップラインのパイピング修理は当店自慢のメニューです。ここだけ合皮を使っているので はやくに劣化してしまうんですが、よそでこの修理を謳っているところはないんじゃないでしょうか。
作業は ざっと次のとおりです。アッパーをとめたステイプルをひとつひとつ抜き、パイピングを取り外し、ピッグスキンでつくったパイピングをあてて、ふたたびステイプルを打ち込む──。エアガンも試したことがあるんですが、エアガンだと どうしても的(もとのステイプル痕)を外してしまうんで、ひとつひとつ手打ちしています。
とにかく手間がかかる修理だから、本国でも対応していません。断らなくてよかったとつくづく思います。頭を悩ませたおかげで看板メニューになりました。
手間をかけた修理といえばドクターマーチンのオールソールも負けていません。エアクッションソールがダメになったというその靴はほとんどカスタムといっていいレベルの修理が必要でした。中底を変えて、リブをつけて、ストームウェルトをつけて、スポンジソールで仕上げました。
生まれ故郷に恥じない商売を
こういうと口幅ったいけれど、クリエイトが好きなんです。ふだんの修理も ただ受けるだけでなく、つねに提案する余地がないかを考えます。たとえばバッグのハンドル交換。普通は似寄りの革で つくり直すんですが、似寄りだから どうしたって元どおりにはならない。だったらあえてアクセントカラーの革にしてみたらどうですか、っていうのが天草流。最近は お任せの修理依頼も増えています。
ぼくはどれも突き抜けていないと思う。これを補うべくできることを増やしていった。できることの多い店はそれだけで魅力的だし、できることが有機的につながって、相乗効果が望める。部材の転用という表面的な利点だけじゃありません。靴づくりで鍛えられた技術や感性は修理にも生かせる。その逆もしかり、です。
もちろん、それぞれどこにお出ししても恥ずかしくないレベルにあると自負します。英国靴に範をとったビスポークシューズの かかとのホールド感には定評がありますし、修理に必要な部材はイギリスから引いているものを含め、ほとんどが揃います。ぼくの原点となる靴磨きは革の奥底からにじみ出るような、上品な光沢を心がけています。
屋号の由来ですか。生まれ故郷から採りました。故郷の人々に恥じない商売をしようと思って。作業服やシューボックスのブルーは故郷の海の色をイメージしています。
アドマンの顔をのぞかせた夢
これからがっぷり四つで取り組んでみたいのはアーティスティックな靴づくり。西荻窪のほうには飾っていますが、魚をモチーフにした鱗状の靴とかパッチワークの靴とか、そういうユニークな靴が好きで、時間を見つけては つくってきました。
じつは数年前にニューヨークの合同展に参加したこともあります。なかなかの好評で、個展のお誘いもありました。この方面で研鑽を積んで、そう遠くない将来、ニューヨークに店を出したいですね。
なぜニューヨークかといえば、それはぼくがミーハーだから。明日はニューヨーク支店に出張なんですよっていってみたいんです(笑)。残り香レベルとはいえバブルの時代のアドマンですしね。近所の銭湯には“NISHIOGI→NEW YORK”ってだけプリントした謎の広告を出したことも。
インタビューしていただいて、あらためてこれまでを振り返ってわかったことがあります。それは、クリエイトすることが根っから好きだったということ。だいたい、路上靴磨きに中目黒を選んだくらいですからね。商売を考えれば、定石は新橋や品川などのビジネス街でしょ。ま、これもどっちかというとミーハー根性ですけどね(笑)。
Photo:Shimpei Suzuki
Text:Kei Takegawa
Edit:Ryutaro Yanaka
西森真二(にしもり しんじ)
1969年熊本生まれ。1989年、広告代理店入社。2007年、38歳で退社。路上靴磨きを皮切りに、手製靴学校で靴づくりを、靴修理会社で修理技術を学び、2013年2月、西荻窪に天草製作所をオープン。2016年9月に注文靴と靴づくり教室に特化したファクトリーショップ、2017年8月に歌舞伎町靴鞄修理店をオープン。2020年8月、アマクサファクトリーCEOに就任。
【問い合わせ】
歌舞伎町靴鞄修理店
東京都新宿区歌舞伎町1-1-5 橋本ビル1F
03-5291-5755
営業:12:00〜20:00(土日祝〜19:00)
定休:無休
https://kabukichofactory.com