人間を象徴する”顔”と”自意識”の相関関係とは
連載を久しぶりに再開するにあたって、今年の最も印象に残るアートイベントのことから書き始めたい。それはどうしても、自分自身が初キュレーションした今年3月の清春芸術村の高橋コレクション展ということになる。
『顔と抽象』と題したこの企画のメインテーマは「顔と抽象は絵画のなかでスペクトラムを成している」というのだが、少し分りにくいかもしれない。その時の問題意識はこうだった。近代から現代の日本の絵画を並べてみると、近代の絵画は自意識の塊であり、圧倒的に自画像が多い。そして戦後、内部(自意識)と外部(社会)の対立が解体していく時代に於いては、人は自画像を殆ど描かなくなり、顔の画像は社会の意匠を表現したものにとって代わられている。
そこで白樺美術館にある梅原龍三郎、有島生馬、河野通勢、岸田劉生、児島喜久雄、安田 靫彦らの数作品をお借りして並べ、高橋コレクションからは、梅津庸一、ob、加藤泉、清川あさみ、近藤亜樹、橋爪彩、田口和奈、中野浩二、奈良美智、町田久美、松井えり菜、村上隆、山口はるみ等の現代の顔作品を対比してみた。
もともとは、近代の洋画が今日では殆ど省みられることが少ないが、果たして等閑視したまま行き過ぎてしまうような作品たちなのだろうかという、日頃の疑問を展示することで、いくらかでも解決できるのではと、考えたところが出発点だった。
本音を言うと明治以来の洋画の世界には隠れた力が眠っていて、現代の若手の作家たちの作品は圧倒されるのではと考えたこともあったりしたのだが、それがそうでもなく、現代の若手の作家には、予想外の力がみなぎっており、なかなか善戦したように思われた。
コレクション展は、もうひとつの柱があり、自意識の解体がすすむと、作家にとっては美意識だけが残り、それが抽象画となるのではないかと考え、コレクションのなかから抽象画だけ並べてみた。
これも安藤忠雄設計のひかりの美術館の無機質な空間に素晴らしく映えた展示になっていて、日本の現代作家会田誠、岡崎乾二郎、彦坂尚嘉、草間彌生、辰野登恵子、山田正亮らの抽象力を大いに楽しませてもらった。
先月、シンワのオークションで里見勝蔵の「K嬢」と題した作品を格安で手に入れた。里見勝蔵は今年の京都近美のデュシャンをめぐる展示、毛利悠子「散種」展を見にいったときに(これはなかなか見事な展示だったが)、併設で展覧会が行われていて、特にフォーヴ(※)のヌード!という典型的な絵画で一気に好きになっていた作家だった。そのため、オークションカタログを見たときに、即入札したものだった。
赤や緑の明るい色使い、描線の大胆さ、ブラマンクの弟子と言われるだけのことはある。
10/13-10/28に名古屋のgallery N でひらかれた水戸部七絵の作品展「DEPTH-BLUE PIGMENT-」が開かれた。
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ここでも2作品を購入したが、ブルーの使い方が大胆で、しかも顔の形に絵具をレイヤーで積み上げる彫刻化する絵画とも呼ぶべき新しい世界が、さらに完成度を増したように思われた。
その質感や筆のタッチ、色彩感覚等様々な技巧に強度があり、今回は顔を盛り上げてない作品の方にも新たな才能が垣間見えたような気がした。
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診察室ではこのフォーブの顔とのっぺらぼうの顔に囲まれて幸せな気分である。やはり人間は人間らしさの根源を顔に求めるものらしい。
(※)原色を多用した色彩をもつ美術作品のこと。その志向をもつ芸術家をフォーヴィスム、野獣派と呼ぶ。代表作家にアンリ・マティス、ジョルジュ・ルオーらがいる。
photo, text: Ryutaro Takahashi
edit: makiko