一般のおじさんのようには体がテキパキとは動かず、そのまま何事もなかったかのようにしていると、ヤクザのおじさんが、
「坊主、度胸がいいな」
とホメてくれた。
軽く会釈すると、
「いま何年生だ?」
ぼくは大学に入ったばかりなので
「1年です」
「何だ、中学か!」
まさか小学生とでも思われていたのか、その真意はわからないが、
「ちゃんと勉強しろよ」
と励まされた。
府中の銭湯で入れ墨のおじさんの背中を流す
黙って頷き、並んで湯に浸っていると、
「背中を流してくれ」
地獄の釜から一緒に上がり、洗い場でヤクザさんの後ろにしゃがみ、タオルに石けんをつけ、背中をこすった。入れ墨がどういうものか知らないぼくは、色が消えてしまうのではないかと恐る恐るこすった。
「もっと力を入れろ。消えねえから強くこすれ」
ぼくは石けんをたくさんつけ、ヤクザの背中をゴシゴシこすった。
「もっと力を入れろ」
全体重をかけて思い切りこすると、
「強すぎる。もっと弱くしろ」
背中を洗っていると、ヤクザさんが言った。
「これからは夜の12時過ぎに入るといい」
「どうしてですか?」
「タダになるんだ」
この銭湯は、夜の12時を過ぎると入浴料を取られないというのだ。
「小遣いだって少ねえんだろうから、そうしたほうがいい」
それを信じ、翌日12時過ぎに来ると、番台のおじさんは本当にタダでいいと言った。理由を聞くと12時でボイラーを止めるからだという。だからもう熱いお湯は出ないが湯舟のお湯を好きに使えという。
これはありがたいと思った。
入っていると、番台のおじさんが洗い場の掃除を始めた。裸足になり、ズボンの裾をまくりあげ、ブラシで床をこすり、ケロリンと書かれた黄色い洗面器で湯舟からお湯をすくい、タイルの上にザブーンと流す。その泡がぼくの足下に流れてくる。
蛇口からはぬるま湯しか出ないので、ぼくもケロリンと書かれた黄色い洗面器で湯舟からお湯をすくい、頭からサブーンとかぶる。
まるで風呂と体を一緒に洗っているかのような気がしながらも、ぼくはヤクザのおじさんの言葉を思い出した。
「学生なんか金がねえんだから、ちったぁ汗臭くたっていいんだ。カネを節約せにゃいかん」
あの当時、銭湯に入るには250円くらいかかったが、その値段で実際にラーメンが食べられた。おじさんの言う通りだと思った。
こんなかたちで府中での生活は始まったが、住み始めると、マンガのような出来事が次々と身の回りで起こった。その一つひとつが、いまのぼくの人格を形成したと言ってもいい。
追って話をしていきたい。
Photo:Getty Images
Text:Masanari Matsui
松井政就(マツイ マサナリ)
作家。1966年、長野県に生まれる。中央大学法学部卒業後ソニーに入社。90年代前半から海外各地のカジノを巡る。2002年ソニー退社後、ビジネスアドバイザーなど務めながら、取材・執筆活動を行う。主な著書に「本物のカジノへ行こう!」(文藝春秋)「賭けに勝つ人嵌る人」(集英社)「ギャンブルにはビジネスの知恵が詰まっている」(講談社)。「カジノジャパン」にドキュメンタリー「神と呼ばれた男たち」を連載。「夕刊フジ」にコラム「競馬と国家と恋と嘘」「カジノ式競馬術」「カジノ情報局」を連載のほか、「オールアバウト」にて社会ニュース解説コラムを連載中