「夫は小学生の頃から野球一筋で、学校の体操服かユニフォームしか着てなかったような人なんです。大学の時もジャージとスウェットしか持ってなかったらしくて、入社後数年してつき合い始めた頃、ジャージに革靴で私のアパートに来たこともあって、その姿には爆笑してしまいました」
留美子さんは夫の人柄や仕事熱心なところに惹かれた。ファッションセンスには引っ掛かってはいたものの、生涯の伴侶を選ぶポイントとしての優先順位は高くないと感じていた。
「突っ込んでも明るく返してくれる性格だったのは大きかったです。一緒にそのことを面白がれるから、別にいいかなと」
結婚後、留美子さんはなるべく夫が暴走せずにシンプルな服装ができるよう、買い物につき合ったりコーディネートを買って出たりしてきた。
しかし、朗らかな反面負けず嫌いなところがある夫は、自ら選んだ服装で妻に評価されようと、自分なりに頑張っていたという。
「ただ私の言うなりになるというやり方が気持ち悪かったんだと思います。それでファッションセンスを磨いて私に『それいいわね!』と言わせたいようで、彼なりに頑張ってました」
夫婦とはいえ、心の中に秘めた思いまでは共有できない部分があるものだ。留美子さんが思うほど、夫はファッションのことを簡単に考えてはいなかったのかもしれない。
「いつのまにか服屋さんで新しいのを買ってきて『これならいいでしょ?』と聞いてきたりするんですね。
その姿勢はかわいいんですけど、ファッションに対する基本的な価値観がないので、自分の審美眼で選ぶというよりも”賭け”みたいになってしまい、時々とんでもない格好をするんです」
留美子さんの夫は「これがダメならこれでどうだ?」というような、好みやセンスと無関係な出たとこ勝負的な服選びをするようになり、ますます迷宮入りしていったのだそう。
「ロシアンルーレットみたいです。どこで買ったの?というような目がちかちかするような派手なTシャツにピチピチのデニムを合わせる日もあれば、センスがバレにくいシンプルな組み合わせをすることもあります」
留美子さんは、特にこだわりがないなら、シンプルな服装が一番無難だし悪目立ちしないと考えている。
そのため、夫がたまたまシンプルなコーディネートをしていると、大げさなくらい褒めてシンプル路線へ進むよう促したのだという。
「無地のシャツにデニムとか、害のないコーデをする時もあったので、そういう時にすかさず『そういう服装が一番似合ってると思うよ』とか言っていたんですけど、やっぱりたまにびっくりするような服を買ったり組み合わせたりするんです。
その繰り返しでした。無理にファッションに興味を持つ必要もないのに。今思うと、その頃から顔では笑いながら、実は服装でイジられないようになることに勝負をかけていたのかもしれません」
ファッションを楽しみたいという気持ちがないのなら、無理にその分野と「勝負」する必要はないのだが、夫は絶対に諦めなかったという。
「うちにはわけのわからない服が山積みになりました。そんな不毛なものにお金を使うなら旅行に行く回数を増やそうよ、と思っていたけど、まあ、彼が稼いだお金なので自由ですしね。
私の場合は運動が凄く苦手で、夫が旅行先でアクティブに楽しみたくてもそれにつき合えないんです。自分が苦手で興味がないことにお金や時間をかけたくないというのが私の考え。夫はどうやら違うみたいですね」
日常的に「その服はアウト」「今日は60点」などと夫婦でやり合うのが日課となっていた岡本家。そんな会話を留美子さんは楽しんでいたし、内心はわからないが、表面的には夫もそんな言葉を親密さゆえの軽口ととらえているはずだった。
「いつのまにか夫の心理に変化が起きたのは、娘たちが年頃になってきた最近のことです。うちは娘が3人。男は1人だけという家族構成なので、彼は肩身が狭い部分もあると思います。
それに、妻から冗談で言われる分には全く気にならないけど、かわいい娘から言われるとショックとか、そういう心理もあるのかもしれませんね」
お父さんのファッションをお母さんがチェックして何かを言いみんなで朗らかに笑う。そんな場面は岡本家の見慣れた日常だったという。
しかし、長女が中学に入り、次女が高学年になると、2人はファッションやコスメに関心を抱くようになった。テレビタレントの服装などに突っ込みを入れたり、”推し”のファッションを褒めたたえたりする姿を、家庭内でよく見かけるようになった。
「そういう娘たちの変化と、夫の心の変化は連動していたように思います。その辺りに気づいてあげられなかったのは私のせいです。かわいそうなことをしてしまいました」
事件が起きたのは、ある週末。家族でショッピングモールに出かけようと支度をしている最中のことだった。
「家族それぞれ着替えだとか、髪を整えたりだとかしていたんです。本当にいつもの感じでした。3女から順に着替えなどが出来上がって、私は自分の支度をサクサク進めながら、子供の髪をまとめたりなどしていたんです」
夫はその日、着古したポロシャツにかなりワイドなパンツを合わせて家族の前に登場したという。
「ポロシャツとワイドパンツという組み合わせでも、おしゃれ上級者の方がすれば個性的でかっこよくキマッたりすることもあるかもしれませんが、とにかく衝撃だったんです。
色の組み合わせも絶妙に気持ち悪くて、とにかくポロシャツのフィット感に対してパンツが野太くて、私、見たとたん思わず吹き出してしまったんです」
母親の反応を受け、娘たちも笑っていいものと判断したらしく、3人の娘は一斉に笑った。長女はその笑いに被せるように、「お父さん、やば。ダサっ」と揶揄する口調で言ったそうだ。
しかし、父が豹変したのはそれから間も無くしてからのことだった。
取材/文 中小林亜紀