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FASHION 百“靴”争鳴

カルマンソロジーが信頼を寄せる「反骨の靴工場」~宮城興業 ・後編〜

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百靴争鳴。日夜美しい靴作りに情熱を燃やし合う、異色の靴職人たちへのインタビュー集。
 
カルマンソロジーの製作を手掛ける、山形の雄 宮城興業を徹底こじレポ!

金子さんが宮城興業に足を運ぶようになってはや20年。

駆け出しのころは尾錠ひとつもって 文字どおり駆けつけたこともあるという、金子さんにとって思い出深い工場であり、二人三脚でカルマンソロジーをつくっている工場です。

後編は、金子さんが反骨のひとと敬愛してやまない高橋和義さんが社長を務める宮城興業について(前編はこちら)。

宮城興業ができるまで

金子:送ってもらったサンプルだけどさ、パーフォレーションが間延びしていないかな。

皆川:サイズが変われば見え方が変わるのは仕方がありません。

金子:そうかなぁ。単なるグレーディングの問題とは思えないんだけど。

皆川:親(穴)と親のあいだは8ミリ。これは仕様書どおりです。

金子:う〜ん。いや仮にそうだとしてもさ、ファーストサンプルの強さがなくなったのは事実じゃないですか。

皆川:パーフォレーションは手でおくっていますから、多少のブレはあると思います。量産ですから、ある程度のアローアンスは認めていただかないと。

金子:じゃ、わかった。7.5ミリにしよう。コンマ5ミリ、詰めてください。

(以上はカルマンソロジーを担当する宮城興業の皆川真吾さんとのやりとりだ。再録したのはほんの一部で、お互いよく冷静さを失わないものだと驚くほどに、金子さんの要求はシビアだった)

お待たせしました。今日は次の春夏の打ち合わせも兼ねていたもので……。では、つづけましょう。最後に宮城興業の話をしたいと思います。

宮城興業は宮城県の石巻市で創業しました。創業の地を採って宮城興業としたわけですが、南陽市に工場を構えるまでの話がめっぽう面白いので、まずはそこから。少々長くなりますが、わたしが惚れ込んだ工場の歴史ですから、ここをすっ飛ばしてカルマンソロジーを語ることはできません(笑)。

創業者である高橋さんの祖父、明良さんは石巻市で高彦商店という酒屋を営んでいました。土地柄、海産物も扱っていたそうですが、経営状況は芳しくなかった。なんとかすべく明良さんが採ったのがディスカウントストア。現金で買えば半値で売りますとやったんです。時は大正末期。掛け売りの時代です。明良さんはダイエーが登場するはるかまえに“価格破壊”をやってのけた。その先見の明には舌を巻かざるを得ません。当然ながら同業者からの圧力は相当なものだった。明良さんは自分の信じる道を邁進し、最後は組合の要職を務めたそうですから、高橋さんの生き写しのようです。高橋さんご自身も口達者なところがよく似ていたんだよなぁと目を細めていましたが、かくいう高橋さんもげんざいは商工会の会長に担ぎ上げられており、近ごろは陳情ばかりだって嘆いていました(笑)。

ほどなく高彦商店にあらたな商材が加わります。それが、ゴム靴。浅草で警官をやっていた叔父が退職して石巻に戻り、これからはゴム靴の時代が来る、とはじめた商売でした。狙いはあたって商売は順調だったようですが、寄る年波には勝てず、病に倒れた叔父がその商売を明良さんに譲ったのです。

タイミングを見計らったように、高彦商店に軍靴製造の話がもち込まれました。二つ返事でこれを引き受けて1941年に興したのが宮城工業。このときは“興”ではなく、“工”でした。

そうこうするうちに軍靴をつくる音だけじゃなく、足音もここ東北に響くようになり、疎開したのが南陽市だったというわけです。仮工場を設けてしばらくして、終戦を迎えます。

戦後は当然、軍靴は必要ありません。材木業とか窯業とかに手を出したそうですが、これが大失敗。その地に根をおろすことを決めていま一度靴に絞り、宮城興業の名で再スタートを切ったのが1952年のことです。

ここの記録が残っていないのでたしかなことはいえないけれど、と高橋さんが語ったのは大要、つぎのような内容でした。

宮城の二文字を残したのは、創業の地だからという理由とはまた別の思いがあったんじゃないかと高橋さんは考えています。

当時の中底にはクラウンがプリントされていました。それで高橋さんは はたと思いいたる。皇居はむかし、きゅうじょうといいました。漢字をあてれば、宮城、となります。そして奇しくも、あらたな工場(板金工場を買いとったそうです)が建つ地は南陽市の宮内。会社の歴史にロイヤルの香りを感じ、誇りに思ったのではないか、というのが高橋さんの見立てでした。

では興業へ変えたのはなぜか。山っ気のあるひとだったから、靴だけでは終わらないぞ、という思いを込めていたんだろうねと話してくれました。

大量生産から少量多品種へ

高度経済成長がやってくると宮城興業も右肩上がりで売り上げを伸ばしていきます。ところが1991年に状況は一変。まるでドラマのような話ですが、創業50周年を祝う宴のさなかに一本の電話がかかってきました。

電話の主は大手取引先の担当者でした。かれは悪いけれど、来月は休んでくれ、といいました。しかしそれは体のいい、逃げ口上にすぎませんでした。その取引先が以降、注文を出すことはありませんでした。どうやら海外に生産拠点をもったタイミングでした。宮城興業は苦渋の決断でリストラを行ったそうです。

八方手を尽くしてようやくみつかった次の取引先がまた、ひどかった。年間3万足の販売を達成した年の暮れ、宮城さんも儲かったでしょ、来年は2割安くしてよといったそうです。卸した靴はほとんど高橋さんのアイデアだったというから開いた口が塞がりません。

高橋さんは大手に頼っていては未来はない。大きく舵を切るべきだと考え、実行に移したのがどんな小さな商売も断らずに受ける、というものでした(げんざいでは日本全国で扱われるオリジナルブランドの和創良靴を開発、軌道に乗せたのも高橋さんの功績だが、それはまた別の機会に)。

宮城興業には金はないけれど才能がある若手デザイナーが一人、二人とやってくるようになりました。デザイナーは情け容赦なく注文をつきつけてきます。この注文に応えているうちに職人の腕はみるみる上がっていきました。小ロットで腕のいい工場があるという噂はあっという間に広まりました。

見逃せないのが、若手の積極的な採用です。きっかけは荒井(弘史)さん。いまや自身のブランドも展開する業界になくてはならない存在です。すこしまえにNHKの朝の情報番組で靴のお手入れ方法を解説しているのをみたときにはびっくりしたものです(笑)。それはともかく、かれが靴づくりのキャリアを積んだのが、なにを隠そう宮城興業でした。

靴づくりに魅せられた荒井さんは、縁もゆかりもない宮城興業の門を叩き、なかば強引に働きはじめます。そして年配の職人をつかまえては、夜遅くまであーでもない、こーでもないと革をこねくりまわしていたそうです。

高橋さんはたいそう驚きました。しかしそれも もっともなことでしょう。それまで靴工場で働くのは寒村の次男坊と相場は決まっていましたから。靴をつくりたい若者が雨後の筍のように出てきている現状を知った高橋さんは、かれらを喜んで迎えるようになりました。

ご存じのようにこの業界は高齢化が進んでいます。わたしが妥協なく つくり込めるのは、宮城興業には、とりもなおさず みずみずしい感性がみなぎっているからです。

皆川さんは文字どおりわたしの右腕です。型紙の作成はすべて皆川さんにお願いしています。わたしが考えていることをこれほど正確に落とし込めるひとはそうはいない。丸ごと一足みずからの手でつくれる皆川さんならではでしょう。いえ、罪滅ぼしじゃありませんよ。たしかにさっきは強くいいすぎましたけれど(笑)。

(仕事を終えた金子さんと皆川さん、そしてぼくは河岸を変えた。地元の焼肉屋で印象に残ったのは、さいきんは脂身が胃にもたれて鉄板から足が遠のいていたにもかかわらず、いくらでも食べられた山形牛と、皆川さんがいった一言だった。

「(金子さんを)殴ってやろうかと思うことはないの」と茶化したらこういった。「ほんとうは、金子さんがいっていることは よぉくわかるんです」。つづけて皆川さんは、一言一言言葉を選ぶようにいった。

「でも、工場ってのはおんなじものがつくれてはじめて工場ですからね。一足飛びには成し遂げられないんです。一歩一歩、です」)

Video&Photo:Yoshihide Shojima
Video edit:Airi
Text : Kei Takegawa
Edit:Ryutaro Yanaka

金子 真
ドメスティックシューズブランドに約17年在籍し、チーフデザイナーとしてモードからクラシックに至るまで様々な手法を取り入れた靴作りで高い評価を得る。2018年春夏シーズンより「CALMANTHOLOGY」を立ち上げ、日本人ならではのバランス感覚と国内最高峰の職人技を取り入れた新たなスタンダードとなるシューズブランドを目指し、ディレクター兼デザイナーとして活動中。


【問い合わせ】
カルマンソロジー
https://calmanthology.com/



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