ベルギーの女子大生がFBに公開した一枚の写真が、世界中で物議を醸している。
陽光に照らされてブランコに座る彼女は、穏やかに微笑しながらワンピースから伸びた両手を上にあげている。無防備になったわきの下には、処理されていない腋毛が写っている。
それ以上でも、それ以下でもないポートレイトだが、この写真が投稿されるやいなや、2700回以上もシェアされ、彼女のFBには世界中から7000回を超えるコメントが付いた。そのほとんどが悪意と侮辱に満ちた批判的なものだった。なかには彼女を「豚」と呼び、カミソリのウェブサイトへのリンクを送り付けた輩までいたのだ。

打ちのめされた彼女は、サポートを得た女性支援団体を通じてコメントを発表した。
「私は自分が着たいものを着るただの女性です。でもそのことが、集団的な悪意や罵倒、脅しを招きました。私はベルギーやフランスで、『私たちにはフェミニズムはいらない』と主張してきました。なぜなら、それは私たちがすでに持っている権利だと思っていたから。でも今回のひどい暴力は、それが真実でなかったことを証明しました。私はすべての暴力が、伝統的な美の基準に『ノー』といっただけの、普通の女性に向けられたものだということを示しておきたいんです」

ほとんどの人間が誰しも持つ、腋毛(armpit hair)は、なぜかくも人々の心をかき乱すのか。古代ローマ帝国時代には、公衆浴場で腋毛の処理(脱毛)が行われていたというから腋毛の処理の起源は古そうだ。
しかし、文化圏の異なるアジアやアフリカでは、腋毛が生えているのは当然だった。世界的に腋毛を剃るトレンドができたのは、1915年にアメリカの女性ファッション誌「Harper's Bazaar 」の広告に「ノンスリーブを着るには、不愉快な腋毛を剃らないと」というコピーが踊ってからだと言われている。その流れに、シェイビングやデオドラント企業が飛びついて、「伝統的な美の基準」を築き上げ、今日に至るというわけだ。バレンタインのチョコや、ゴールデンウィークと変わらないのだ。

ケダモノという表現は、しばしば野蛮な人に用いる。「毛がないスムースな肌こそ、文化的で美しい」という見方があるのも大いに結構だが、自分の価値観を押し付けて人の毛をはがそうとすることほど、ケダモノじみた行為はない。自分の体を他人に侵されずに所有する権利は、ファッションを楽しむことに通じる。そのことを、この一枚の写真は雄弁に伝えているのだ。
(2016年9月の記事を再掲)
Photo:getty images
Text:栗P