【前編】のあらすじ:冨山涼太さん(独身・46歳)は、ホモソーシャルという言葉の意味を最近になって知った男性だ。その結果、自身がいかにホモソ社会に迎合して生きてきたかを突きつけられ、深く悩むようになり、中学時代のある事件について思い出した。1人の同級生が皆の前で用を足すことを拒否したことで、「ホモ男」とあだ名をつけられたというのだ。【後編】ではさらに昭和のホモソ社会の闇について詳しく話を聞いていきたい。
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涼太さんの通う中学で起きた皆の前で用を足すことができない友人を「ホモ男」と揶揄した事件は、まさにホモソ社会にある“人前で性器を出せないのは男らしくない”という価値観のもとに起きた出来事である。
「よく考えれば、なんで男性トイレはああいう構造なんでしょうかね。それに今はほとんどないですけど、昔は立ちションすることだってよくすることありましたよね。今であればこれが異常であると考えられますが、このときはそんな風に考えたことはありませんでした。あまりにも拒むその同級生に対して、本当にホモなんじゃないか、怪しい、気持ち悪い…そんな気持ちすら抱いていました」。
ホモ男と呼ばれるようになった同級生に対する1軍の攻撃は続いたが、彼がめげることはなかった。結局、つまらなくなったのか、1軍はまた別のいじめに着手したという。
「その頃の1軍男子たちの遊びは、今思えばかなりひどいものばかり。それが当たり前のように行われていたことを思うと本当に闇が深いし、それに反対を唱えられなかった自分も同罪なんだと思います。次に行われたのは、地味系の女子に好きでもないのに告白をして付き合い、それを笑い物にするというもの。自分には絶対回ってきて欲しくないと思っていましたが、残念ながら餌食となってしまったんです」。
そうして涼太さんは好きでもないクラスの女子に告白させられることになったのだ。
「女性をモノとしてみたり、見下している。まさにこれもホモソ社会で起きがちな現象ですよね。でも、そのときの僕には断るという手段は持ち合わせていませんでした。結局、嘘の告白をして、喜ばせて彼女を笑い物にしてしまったんです」。
平塚氏はこう話す。
「涼太さんの事例は、ホモソ社会というだけでなく、いじめという性質も持っていると思います。ホモソ社会にありがちな価値観があったからこそ、発生した手法だったとも言えるかもしれません」。
涼太さんは一連の出来事に対して、反省の気持ちがなかったわけではないが、どこかで若気の至りと捉えていたと話す。
「みんなやっていたし、しょうがなかったと。そうやって自分を守ってきたのかもしれません」。
その後、彼女には謝罪をする機会があったという。
「高校生になってから再開して、そのときに改めて謝罪をしました。彼女は笑って許してくれましたが、それは運がよかっただけだと思います。こんな体験をしたはずなのに、僕はこの後もずっと悪い方のホモソ社会に身を置いてきました。でもそれほどまでに、僕の周りではそういう社会が当たり前だったんです」。
だからこ、それに違和感を抱く息子の発言にはっとしたのだ。
「息子は、排他的なりがちなホモソ社会に属しているという自覚がある。それだけでも僕にとってはすごいことだなと思うんです。同時に僕自身ももっと学んだり、人と話したりしなければと思うのですが…」。
猛省しているものの、このことを同僚や友人と話すまでには至らないという。
「男同士の絆には、もちろんポジティブなものもあります。でもそう多くないと感じています。実際、今属しているホモソ社会でこの話を吐露したり、議論するのはかなり勇気がいるし、なかなかできません。その結果、だんだん疎遠になってしまった友人も。一度気になりだすととにかくありとあらゆることが気になるんです…」。
友人の発する下ネタやセクハラ発言、女性をネタにする話題、二次会のキャバクラ…気になり始めるとキリがない。
「そういう発言や行動をひとつもしないなんて到底できそうにありません。びっくりするぐらい、自分にとった当たり前としてインプットされているので。ただ、ホモソを知らずして発言しているのとそうでないのとはまるで違うんじゃないかなとも思うんです。僕には娘もいるので、その点においても思うところはありますね」。
ホモソーシャルという言葉が知られるようになって久しい。聞いたことはあるけれど、詳しい意味はわからない…そう思う人も少なくないだろう。平塚氏はこう話す。
「多様性が叫ばれるようになったこともホモソの広がりに拍車をかけた要因のひとつです。男性といっても姿形はもちろん性格や嗜好はひとりひとり異なります。それにそもそも、誰かと常に同質であるということは、あり得ません。そのことを改めて考える必要があるのかもしれませんね」。
これまで違和感を覚えることのなかったことが急に気になる。それは新たな物差しや知識を手に入れ流ことでもある。ホモソ然り、私たちは皆、異なる個性を持つ人間である、それ以上でも以下でもないことを心に刻みたい。
取材・文/悠木 律