19時。愛子のコンドミニアム。
「それで、そのおばちゃんたち、4時間も居座っていたのか?」
まだ片付けが出来ていない部屋で残り物の食事に箸をつけながら、宏は嘆いた。
「お前、おかしいことはおかしいってきちんと言った方がいいぞ? なんでお前の歓迎会なのに、お前が食材の費用を払って、お前が用意するんだ?」
そうだった、今回のどんちゃん騒ぎの費用は、気が付いたら私の財布から出されていたものだったんだ。
「お前、海外初めてってことで、なめられているんだよ。遊びに来ているわけじゃないんだから、しっかり頼むぞ!」
ところが宏のこのような杞憂は、現実のものになっていくのだった。
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それからの愛子と、恭子たち日本人駐妻たちは、ほぼ毎日と言っていいほど一緒に過ごすことになった。
突然愛子の家に押しかけてくるのは日常茶飯事で、時には夫が帰宅するまで長居しているときもあった。
彼女らは愛子の趣味や趣向、私生活にまで干渉してきた。バッグや洋服を買う際は、必ず自分たちより下のブランドを勧めてくる。
現地に少しでも馴染みたいと思い語学学校に通おうとしたら、どこで嗅ぎつけたのか、「タイ人の男でも狙ってるの(笑)」なんて、陰口を叩かれたときは、人知れずベッドで泣き叫んだ。
夜に夫とタクシーで外食に出かけた際は、「昨晩どこに行っていたの? あんな遅い時間に出歩くなんて、子どもの成長によくないわよ」なんて言われる始末。
愛子は次第に、心も身体もむしばまれていくのを感じていた。
バンコク滞在が1年を経過したころだった。突然宏が「そろそろ駐在期間も終わるかも」とつぶやいた。
「よかったじゃない! これで日本に帰国できるね! 日本でまた昔みたいな生活に戻ろうよ!」
「いや、オレはやっぱりここで頑張っていきたい。駐在の延長を希望しているんだ。それが無理なら最悪、辞めてこっちで現地採用でもいいから働きたいと思っている」
「え! ちょっと待ってよ! そんなこと私何も聞いてないよ?」
「お前がこの街でいまいち馴染めていないのは知ってる。でもオレは、やっぱりここでチャレンジしてみたいんだ!」
この人は何を言っているんだ? 私がどんな気持ちで、この日本人コミュニティを生き抜いていると思っているんだ。現地採用でも頑張りたい? どうやって生活していくっていうの……。
愛子は絶望的な気持ちになった。もうこの人とはやっていけない。
そして愛子は、数か月前から用意していた離婚届を、夫の目の前に置いた。
ライター 松木純