ダブル・エフ・ジーで経験を重ねた横瀬さんは1994年、いよいよみずからの足で一歩を踏み出します。武器は、カンペールとビルケンシュトックでした――
武器は、カンペールとビルケンシュトックでした――
20代最後の年に独立
じつに刺激的な毎日を送っていましたが、わたしは30(歳)をまえに決断を迫られました。
ダブル・エフ・ジーは小売展開(1号店は1987年にオープンした大阪・梅田店)に乗り出すのと同時に、イタリアのエレガントな靴をくっきり打ち出すようになりました。店の色を決めるのは大切なことです。その後のワールド フットウェア ギャラリーの躍進を考えても、その選択は間違いではなかった。しかしわたしは長い目でみればコンフォートの流れがやってくると確信していたし、このあらたなムーブメントをいち早く紹介したかった。

カンペールやビルケンといったあらたなブランドで挑戦してみたいと心に決めたわたしはダブル・エフ・ジーに入社して11年、29(歳)の年に独立をしました。わたしはいま申し上げたふたつのブランドの代理店として一本立ちします。深田さんは取引先にわたしの独立を伝え、横瀬をよろしくと一筆添えてくれました。
アウトレットで稼ぎ、パルコに出店
独立したわたしは まずは資金稼ぎをする必要がありました。仕入れるには元手がかかりますからね。わたしは赤坂の円通寺坂にアウトレットショップをオープンしました。TBSの横の通りです。バブルがはじけたそのころは在庫がいたるところで余っていた。古巣のダブル・エフ・ジーやもろもろの会社から買い漁って売り場に並べました。
ある日、パルコの営業の方がやってきました。粋のいいインポートシューズを探しておられて、我々に注目していただいたというわけです。そうして渋谷パルコにオープンしたのがリアルスコープでした。

ナイキのエアマックスもひと段落して、マーケットはポストスニーカーになりうる存在を探していた。そんな時代にカンペールとビルケンがピタリとはまって、大いに売れました。
当時は問屋が店を出すのは御法度なところがありました。越権行為というわけです。しかし それは靴業界という小さな世界の話であって、洋服屋をターゲットにしていたわたしたちに そのしがらみはまったくありませんでした。
カンペールではオンリーショップを何軒もつくりました。ビルケンがブレイクするきっかけとなった原宿店も仕掛けました。このときの試行錯誤が、リテール業で戦うための基礎体力になりました。