30歳で陶芸の道へ進み、5〜6年後には生業に!
FORZA:ひさこ先生、山田隆太郎さんのお話は興味深すぎて、ますます陶芸に興味が湧きました。
ひさこ先生:思ってることを忌憚なく話してくださいましたからね。そう言えば、この近くの八王子に、山田さんとも仲が良くて、面白い経歴の作家さんがいるので行ってみましょうか?
FORZA:なんとも惹かれるプロフィール。ぜひお話が聞いてみたいので行きましょう!
20代でミュージシャンとしてデビュー
FORZA:野口さんは、元々ミュージシャンだったんですか?
野口寛斉:東京に出るきっかけは音楽で、それが10年前くらい。27歳のときでした。
ひさこ先生:地元は、どちらですか?
野口寛斉:九州・福岡で、隣家に住んでいた叔父と叔母がミュージシャンで作曲家をしていて、そこではジャズが流れていて、実家では演歌が流れているミクスチャーな環境で育ちました。
叔父を尊敬して、ついて回ってるうちに音楽への興味も強くなり、高校の頃オンナのコにモテたくて最初はDJになったんです。
FORZA:いい話です。
野口寛斉:高校を卒業した後は、音楽で食べようとは思わず、コンピューターの専門学校に進学するんですが、そこで一緒のクラスになった友達が全盛期だったミクスチャーのバンドを組んでて、誘われてDJとして参加すると、うまく事が運んでデビューすることになったんです。
FORZA:スゴい! 職業=ミュージシャンになるわけですね。
野口寛斉:たいして売れてないんですが、事務所に所属してCDをリリースして、全国も廻ったりしました。そのときに一緒になったバンドがR&Bをやってたんですが、それを見て衝撃を受けて、”おれもこうなりたい”って思ってしまいました。
それで所属してたバンドと喧嘩して辞めて、新たにメンバーを探して4人編成のR&Bのバンドを作りました。楽器も弾けなかったので、そこからピアノを習い始めて
ひさこ先生:えっ? 未経験から??
野口寛斉:そうです。23歳くらいから始めて、ボーカルとピアノを担当しました。すると、僕らの存在を聞きつけた東京の事務所の方が見にきて、これまた運良く契約することになり、中野新橋の一軒家に4人で住み込み。3階のレコーディングスタジオで週に12曲作らされるという詰め込みの生活がスタートします。
FORZA:いろいろ情報量が多すぎて、処理できなそうです…。
野口寛斉:結果3年籠って作り続けて 800曲くらい曲ができたので、選抜してアルバムを出す話になったんですが、周りのミュージシャンと接する機会も増えて話なんかもするうちに、いかに自分の所属した事務所が無茶苦茶なのかを知るわけです。
FORZA:俺の住んでる世界はおかしいぞ、と。
野口寛斉:その上、自分たちが出したい曲と、事務所が出したい曲にも相違がありすぎて嫌気がさして、事務所との契約を破棄しました。その後自主制作してリリースしたんですが、それほど成功することもなく、30歳を迎える頃にメンバーが1人抜け、その結果解散することに。20代は音楽に捧げていました。