企業内保育施設に務める保育士・美和と、そこに子どもを預けている父親、櫻井。
家庭の匂いが微塵もしない櫻井の車で銀座のランチへと向かい、他愛もない世間話をそれなりにしたところで、櫻井は一言だけ急にまた敬語を使った。
「先生、少し疲れてはいませんか」
ああ、だめだ。
※この記事は取材を元に構成しておりますが、個人のプライバシーに配慮し、一部内容を変更しております。あらかじめご了承ください。
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美和は頭の中で超えてはいけない一線が目の前にあることに気づいてはいた、ここで苦笑いでもして去るべきだともわかっていた。だけれども櫻井の優しそうな目、ゴツゴツとした手、すらりと高い身長、甘く低い声を差し出された今、逃げようがない。全てが欲しかったものだった。
美和は櫻井の妻と息子のリョウくんのことを思い出しながらも、櫻井のその言葉に対して、ほんの少しだけ頷いた。
「疲れています」
銀座から車をまた走らせてすぐの場所、東京タワーが大きく見えるホテルの一室にふたりは無言でチェックインした。
そんな関係性が始まって、既に半年近くが経つ。
ふたりのいつものルーティンはこうだ。
夕方の17時過ぎに、櫻井の妻や他の親たちが一斉に子供を迎えに来る。片付けなど終わらせて18時が過ぎた頃、美和は先に退社して、電車で会社から離れた港区へと向かう。いつものコーヒーチェーン店で窓際の席に座る。櫻井のスポーツカーが見えれば、すぐに店を出て助手席に滑り込む。
きらびやかなビストロやバーで食事をした後は、美和が背伸びをして借りた東京タワーの見える港区のワンルームで時間を過ごす。何もかもが幸福だった。
行為を終えた後のベッドの中で美和は、ぽろりぽろりと言葉を漏らす。
「ねえ、奥さん、最近はリョウくんに冷凍食品ばっかり食べさせてるみたい」
「ああ、あいつは家事能力も子育ての能力も低過ぎて話にならないんだよ。部屋の中が汚過ぎて、おかげで俺は自分の車の中と美和とこうしてる時間だけが休まるんだよ」
「確かに、いつもリョウくんの爪って伸びたままなんだよね。櫻井さんもリョウくんも気の毒だな、私なら家事もできるし……保育士だから子育ては得意だから、気になっちゃうだけかもしれないけど」
「本当だよ、リョウも妻より美和と過ごしている時間のほうが長過ぎて、美和のほうが好きみたいだしな。離婚しようかな、本当に」
「……ううん。奥さんに悪いよ、ここまでにしとこう、ほら服を着て」