女性の活躍促進が叫ばれる現在───働き方改革など、企業側も社員が働きやすい環境を作ることに注力する今日この頃。共働きの夫婦のために、会社内に社員専用の保育園を作る取り組みをしている企業なども増えている。同じ会社内に赤ちゃんを預けていると思えば、母親も仕事を安心して頑張れるというもの。
今回の物語は、そんな企業内保育施設で、静かに進行している秘密の物語。
※この記事は取材を元に構成しておりますが、個人のプライバシーに配慮し、一部内容を変更しております。あらかじめご了承ください。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
東北地方の小さな田舎町で生まれ育ち、地元の短大を出て、地元の保育園に保育士として就職した美和(仮名)は、24歳の時に一念発起して上京した。

東京には企業内に設置された保育施設が増えており、残業も少なく働きやすいと評判だったうえに、田舎よりも給料が高い。何より、憧れの都会にいつかは出てみたい気持ちを捨てきれなかった。
27歳になった今、美和は東京駅すぐそばの大企業の中で勤務している。スーツ姿の親たちが、抱っこ紐やベビーカーで朝早くから子供を連れてくるのが日常風景だ。
「今日もよろしくお願いします」
親たちはそう言ってぺこりと頭を下げたあとに、上のフロアに移動してすぐに仕事を始める。
美和の仕事はそこで子供を預かり、夕方にまた迎えが来るまでそっと子供たちを見守ることだ。
この保育施設で預かる子供はたった4名、保育士は自分を含めても2名。少人数のここでは、美和は嫌でも子供たちと親密になっていく。特にリョウくんという男児には懐かれており、仲良くなっていた。……もちろん、子の親とも。
「じゃあパパ、仕事に行ってくるからね」
2歳のリョウくんをいつも朝に預けに来るのは、営業部のエース・櫻井(仮名)。35歳で精悍な顔立ち、出世コース間違いなしの男と評判ながら、社内結婚をした奥様が経理部にいることもまた知られていた。
「櫻井さん、今日もリョウくんのこと、しっかりと預からせていただきます」
朝に子供を預けに来るのはいつも櫻井。そして夕方に子供を迎えに来るのは、定時で確実に上がれる櫻井の妻だった。夕方にいつも小走りで現れる櫻井の妻は、痩せ型で肌に艶がなく、髪の毛はいつも雑に結ばれており、仕事に育児にと追われていて常に余裕がなさそうに見えた。
「美和先生、本当にいつもありがとうございます。パパの帰りが遅いんで、今日もまた冷凍食品頼りの夕食ですよ。パパさえいれば何か作れるっていうのに」
「でもリョウくんパパ、毎朝しっかりとリョウくんのお世話してくれていますよ。素敵なパパですよね」
「……え、そうですか? やだもう先生……。そうなんです、優しいんですけれど、この頃残業で全然帰ってこなくって。ではまた明日、よろしくお願いします」
美和はそう言って照れながら去っていく、櫻井の妻の後ろ姿をじっと見つめていた。もちろん、笑顔で手を振りながら。“美和先生”としての職務を全うしながら。
櫻井さんが優しいことなんて、私だって知っているよ、と心の中で呟きながら。
「親と先生」の関係を先に壊しにきたのは、櫻井のほうだった。
「美和先生って、東京に出てきたばかりなんですよね。実は僕も東北出身で、最初不安だったから気持ちわかりますよ。よかったら休みの日に東京案内でもしましょうか?」
勤務してまだ1ヵ月も経っていなかったその時、美和は悩んだ。ここは会社内にある、小さな小さな保育施設。親たちとの関係性を悪くしてしまえば、すぐに居づらくなってしまうことは目に見えている。
櫻井の下心が見えた誘いに、最初は何かと理由をつけて断っていた美和。しかし、一度行けば終わる話かもしれないと、昼の時間に少し会うだけなら……と乗ることにした。そこでもし何かあれば、奥様のほうに伝えると言えばいいのだから、と。
しかし、美和のそんな感情は、休日の櫻井に会った瞬間に既に吹き飛んでしまっていたのかもしれない。
待ち合わせ場所に現れた櫻井は、髪の毛をワックスでカジュアルに整えていた。私服姿もスタイリッシュで会社内で見るよりも何歳も若く見え、美和の田舎では見たことのないような高級車で軽やかに迎えに来たのだった。

「妻とは車を分けていてね、妻のは買い物や子供用で、こっちは僕の趣味の僕だけの車なんだよ。だから2人しか座れない2シートでね、特別な人しか乗せたくなくて」
会社では敬語で話す関係性だったはずの櫻井は、いつの間にか助手席の美和に向かってタメ口で車の説明をする。ベビーシートもついていないその車は、新車の匂いと、櫻井のつけている香水の香りだけがうっすらと混じり合っていた。
家庭の匂いが微塵もしないその車で銀座のランチへと向かい、他愛もない世間話をそれなりにしたところで、櫻井は一言だけ急にまた敬語を使った。
「先生、少し疲れてはいませんか」
ああ、だめだ。
Text:女の事件簿調査チーム