「パパ、私どうしても女優になりたいの。端役でもなんでもいいの、もう一度挑戦したい。わがままなのは重々わかってる……。でも今じゃなきゃもう挑戦できないし、一生後悔するのも嫌なの……」
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織田圭吾(仮名・35歳)は「どうせすぐに諦めるだろう」と、半ば育児の息抜き程度の感覚で、子連れ再婚した妻、冴子(仮名・34歳)の女優への道に同意した。
しかし、東京から2時間の地方都市では劇団も少ないうえにチャンスもほとんどない。冴子は東京での生活を考え始める。さすがの圭吾も、その考えには驚きを隠せない。母親不在で4人の子供たちをどう育てるか……。深夜の夫婦会議は何度も行われた。
「東京か……。それにしても遠いよな。子供たちの面倒は俺がみられるけど、ご飯作るの下手だからな……」
「それなら二拠点にして、私は週末には帰ってきて、一週間分の食事を作っておく。食材もしっかり買っておくようにするから」
「それならなんとかやっていけるかもな。上の二人が手伝ってくれるだろうし」
「本当? 本当に東京に行ってもいいの?」
「ずっと行くのはさすがにキツいから……二拠点ならね」
「嬉しすぎる!!! じゃあ拠点になる家も見つけなきゃ。劇団とか事務所のオーディションも探さなくちゃ。本当にありがとう」
いつしか圭吾は、そのアンニュイでナチュラルな冴子の魅力をもっと多くの人に見てもらいたいと思うように。稼業から抜け出す勇気がなかった自分の想いを徐々に冴子に重ね始め、サポートする自分がなかば誇らしく思えてきたのだ。
ほどなくして、ある劇団の入団が決まり、冴子は東京との二拠点生活を始めることになった。平日は東京、週末は地方という生活だ。
圭吾は仕事に加え、小学校と保育園を回りながら子供たちを育てていた。元々おおらかな性格もあったせいか、気負うこともなく淡々とこなし、それなりに楽しい生活を送っていた。
だが、圭吾の両親はもとより、周囲からの反応はかなり厳しいものだった。
「奥さん何してるの?」
「離婚したわけじゃなさそうなのに、ワガママな人なんだよ」
「産んだばかりの子供を置いて東京に行くなんて最低。母親失格」
「母親なのにご主人に育児を押し付けて自分はやりたいことやるって、育児放棄よね」
痛烈な言葉の数々……。もちろん圭吾の耳にも届いていたが、当の本人はあまり気にすることもなかった。
ただ、冴子の応援をしたい、その気持ちのみが圭吾を動かしていた。
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劇団で学ぶうちに冴子はいくつか役をもらい、女優として舞台に立つことができた。それは冴子と圭吾にとってとても誇らしく、まさに夢を実現させた瞬間でもあった。
子供たちは自分のことのように喜び、最高の笑顔で祝ってくれたが、冴子は自分のわがままを通したことに対し、内心申し訳なさで涙が出た。子供たちはママが大好きなのがわかっていたからだ。
だがまだ辞めるわけにはいかない。もっと大きな役を獲得しないと……。
冴子は懸命に努力を続けている。数年経過しても鳴かず飛ばすの女優ではあるが、圭吾はもう少し待ちたいと思っている。
ひと昔前であれば、夢を追いかけるミュージシャンの男性に、そっと寄り添う女性の構図
がよくみられた。だが、今はこんな夫婦もいる。
夢を追いかける子沢山の妻と、しっかりフォローをする夫。新たなる夫婦の形として、とても興味深い。
Text:女の事件簿調査チーム
※この記事は取材を元に構成しておりますが、個人のプライバシーに配慮し、一部内容を変更しております。あらかじめご了承ください。
「酸いも甘いも噛み分けてきた、経験豊富な敏腕女性ライターチーム。公私にわたる豊富な人脈から、ごくありふれた日常の水面下に潜む、女たちのさまざまな事件をあぶり出します。