「大人の都合でできた命に翻弄された女」の話
新しい生命の誕生を意味する‟妊娠“。しかし、時にこの喜ばしいイベントが、波乱を巻き起こすことがある。波乱は誰にも止めることのできない大きな波と化す……その先に見えてきたものとは?
※この記事は取材を元に構成しておりますが、個人のプライバシーに配慮し、一部内容を変更しております。あらかじめご了承ください。
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「山本さん、二番の診察室にお入りください」。
診察室に向かうのは山本霧子(仮名)、40歳。子持ちバツイチ、独身だ。
胸の高鳴りを抑えつつ、診察室に入った霧子に産科医から発せられたのは「おめでとうございます。ご懐妊です」という言葉だった。
霧子には付き合って3年目の彼氏がいる。年齢は42歳、霧子と同じく、子持ちバツイチ独身だ。一緒に住んではいないが、一週間の半分以上を自宅で一緒に過ごす。10歳の息子もよくなついて、仲良しだ。
この関係が楽という理由から、なんとなくこの状態を続けていた。しかし、妊娠が、2人の関係を大きく変えるきっかけになることは間違いない。少なくとも、霧子はそう考えていた、勿論いい意味での‟変化“を。
「え?そうなの?それは困ったね……」
妊娠の話をしたあとの、思いもかけない彼の言葉と反応に、霧子は混乱した。
‟困る“。一体何に?誰が?なぜ?頭の中にかけめぐる疑問……。しかし、明確な答えは見つからない。見つけられるはずもない。だって、2人の間には子供ができて、喜び以外何一つ困ることなんてないはずなんだから!疑問をかき消すように心の中で叫び続ける霧子。でも、声が出ない。
「嘘だよ~!やったね!俺たちの赤ちゃんだ。結婚して家族になろう」。
心のどこかで彼からこんな言葉が飛び出すのを待っていた。取り乱すことなく、静かに……。
しかし沈黙を破ったのは予想もしない一言だった。
「僕には無理だ」
願ったものとは大きくかけ離れ、霧子の心を大きく傷つけた。同時に再び頭を駆け巡るのは、なぜ?の疑問。
「なぜなの?私との子供が嬉しくないの?結婚するつもりはなかったの?だって、あんなに家族みたいに私たちと過ごしたじゃない?今お腹にいる子はどうすればいいの?この子はあなたの子供なのよ!私にはあなた以外いないのよ!」
そう泣き叫びたかった、彼を問い詰めたかった。でも、なぜだか言葉も涙すら出てこなかった。悲しくてたまらないはずなのに、不安でしょうがないはずなのに……霧子の中の何かが、そうすることを止めたのだ。
なぜなら、その行動が彼の望む、彼の前にいつもいる霧子と違うからだ。どんな時だって取り乱したりしない、何が合っても冷静に余裕の笑みを浮かべる女性。しかし、自分の中で沸き上がる‟疑問“という大きな波をせき止めることは出来ず、やっとの思いで発した言葉は「何で‟無理“なの?」
「僕にはすでに子供がいるんだ。一人は知っているよね?前の奥さんとの子供。でも、実はもう一人いるんだ。霧子には話していなかったけど、もう一人」。
一人じゃない?二人?聞いたことない、誰の子?いつの間に生まれたの?再び霧子の頭中で波が渦巻く。
聞けば、その二人目の子供は、大学時代から付き合いのある友人女性との間に授かった子供だという。バリキャリの独身女性で結婚予定はないけれど子供は持ちたいという。精子バンクに登録することも考えたそうだが、知らない他人の精子でできた子供を愛せる自信がない。そこで、素性が明らかで、トラブルになる心配がない長年親しい友人であった彼に精子提供を依頼したのだ。
一切迷惑はかけないという条件でも少々悩んだが、最終的に彼は承諾し、子どもは無事に生まれた。‟自分の遺伝子を持つ娘“に興味がわき、会いに行ったところ、余りの愛おしさに認知と養育費の支払いをその場で自ら申し出たというのだ。
じゃあなぜ私のお腹の子は無理なの?私のお腹の子とその子の違いは?どちらもあなたの子なのに?愛している人の子供は認めなくて、愛していない人の子供は認めるの?霧子には理解不能だった。
「ただいま~。あ!来ていたんだね。この前の対戦の続きしようよ」。
最悪のタイミングで息子が帰ってきた。何も知らない息子は彼を見て本当に嬉しそうだ。2歳で父親という存在がいなくなって、丁度7歳の頃から一人の男性が頻繁に出入りするように。最初はなかなか心を開かなかった息子も、成長するにつれて、霧子よりも彼に色々な話や相談をするようになっていた。霧子はその様子を見るのが本当に嬉しかった。
離婚後、彼に出会う前も、恋愛はいくつもしてきた。優しくて、お金もあって、素敵な人はいた。でも、霧子にとっての恋愛は、息子含めのこと。自分と同じくらい息子を愛せる人を求めていた。彼を置き去りにして自分の幸せだけを考えることなどあり得なかった。
彼は唯一息子と打ち解けることが出来た人だった。つい一週間前、学校公開に彼と二人で来て欲しいといいだした。そんなこと初めてだ。10歳、父親を欲しているのだろう。そんな矢先の妊娠。結婚して家族になることを願わない女性がどこにいるのだろうか。
「サッカーしに、公園にいってきま~す」。
扉を開けて、出ていく二人。遠のいていく二人の笑い声。いつもと変わらない光景だ。でも、それを眺めている霧子の心はいつもと全く違う、体も違う、霧子の中にもう一人いる。そしてその子を拒絶したあの男。お腹の底から何かが沸き上がってきた、抑制できない何かが……。
ひとりになった途端、留めていた心の中の疑問、悲しみ、叫びが堰を切って流れ出た。もう自分では止めることができなかった。泣いた、泣きわめいた、叫んだ、そして暴れた。誰にもせき止めることのできない感情の波が巨大なものと化した瞬間、事件は起きた。
腹部に激痛が!そして、赤いものが流れた……。流産だった。
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霧子が亡くなった子の母親だったのは、ほんの三日間。妊娠を告げられてから彼に話すまでの、たった三日間。時間はまるで何もなかったように過ぎていき、いつもの日常を過ごす自分がいる。
彼がいないことを除いては。霧子には別れる以外の選択肢はなかったのだ。
「もう、僕にパパはできないんだね」
二人で行ったスーパーの帰り道、息子が何気に放った一言だ。
突拍子もない一言に一瞬ドキッとしたが、霧子の口から自然と出た言葉は「パパはいつもいるじゃない、ここに。ママはママだけじゃなくてパパでもあるんだから」だった。
そう、霧子がこの世で一番に成し遂げたいこと、それは何よりも大事な存在である、この子の笑顔を守ること。
霧子の言葉に少しだけきょとんとした表情を見せ、笑顔で息子が言った言葉は、今も霧子の宝物だ。
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「知ってる。ママがパパでもあることも、ママが僕のことが大好きなこともね」。
顔を見合わせて笑いあった。二人で登ってきた坂道、いつも歩くこの見慣れた景色が、なんだか少し違って見えた。
Text:女の事件簿調査チーム
「酸いも甘いも噛み分けてきた、経験豊富な敏腕女性ライターチーム。公私にわたる豊富な人脈から、ごくありふれた日常の水面下に潜む、女たちのさまざまな事件をあぶり出します。
「女の事件簿調査チーム」への取材依頼はこちらまで→forzastyle.web@gmail.com