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FASHION 百“靴”争鳴

歌舞伎町 クラブ愛本店で、ホストの靴を磨き続けて。広告代理店マンから靴のよろず屋へ転職した男の物語。-前編-

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百靴争鳴。日夜美しい靴作りに情熱を燃やし合う、異色の靴職人たちへのインタビュー集。

日本一ホストの靴を磨いた男、西森真二

FORZA STYLEの読者なら一度は足を踏み入れたことがあるだろう新宿はゴールデン街。その外れに靴、鞄の修理をおもな生業とする天草製作所の新宿店、歌舞伎町靴鞄修理店がオープンしたのは いまから3年あまり前のこと。

新宿には伊勢丹もユニオンワークスもありますが、歌舞伎町靴鞄修理店は開店以来、右肩上がりで売り上げを伸ばしているそうです。

前編はオーナーの西森真二さんが伝説のホストクラブに拾われるまでをお伝えします。

夜の街に恩返しがしたい

新宿ゴールデン街に店を出して4年目を迎えます。まわりからは こんなところじゃ失敗するに決まっていると口を揃えていわれましたが、きわめて順調です。ぼくにいわせれば歌舞伎町はブルーオーシャンだった。国道に分断されたこのエリアは かえって可能性があると考えていました。狙った客層は まだ1割くらいなんですけどね。

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ぼくは夜の街で働く人々をターゲットにしました。彼らの生態を考え、営業時間は本店から2時間遅らせて12時〜21時(コロナ禍のため時短営業中)。なんなら夜通し開けている店にしようかと思ったくらいでした。

じつは歌舞伎町は馴染みのある街です。この仕事でやっていこうと決めたぼくを支えてくれたのが"クラブ愛本店"というホストクラブでした。

アドマンとしての17年間

大学でハマったのが映像。走り屋だった仲間の走行シーンを撮って、編集して、っていうのをひとりでやっていました。これを仕事にしたいなと考えて選んだ就職先が広告代理店。17年、勤めました。たいへんだったけれど、楽しかった。小さな会社だったのでなんでもできたし、お客さんにもかわいがられましたしね。

まだバブルの残り香が漂っている時代で、酒に弱くても接待は欠かせない素養だったし、捕まらないタクシーに声を枯らして、腕をしびれさせたものです。

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入社して半年くらい経ったころにやらかした失敗もいい思い出です。ぼくは当時松坂屋のテレビショッピングを担当していました。紀州の梅干し、真珠のネックレス、羽毛ぶとん。素材を撮影して、編集して、テレビ局に提出し、そしてオペレーターをセッティングするまでが ぼくの仕事です。

羽毛ぶとんが紹介されるその日、ぼくは休みをとって友人と箱根に遊びにいっていました。と、ポケベルが鳴りました(懐かしいですね)。折り返すと、上司の怒鳴り声が聞こえました。「どういうことだ。真珠が流れているぞ」。幸か不幸か、その問い合わせは ほとんどなかったので、大きな事故にはならずに済みました。

そんな失敗もありましたが、おおむね順調なアドマン人生でした。

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忘れられないのはジョン・レノンのイラストをつかった官公庁のポスター。その案件が舞い込んで はたと閃いた。世界でも有名な一筆書きのような あの自画像がぴったりじゃないかって。じつはそのころ、埼玉のジョン・レノン・ミュージアムになんども通うほど好きだったんです(笑)。

官公庁の仕事ですから、もちろんコンペです。ようやく調べ上げたレノン・サイドの担当者は ぼくのオファーに難色を示しました。コンペ物件はありえないって。けれど、感触は悪くなかった。そこでクライアントに「交渉の余地があります」と伝えた。クライアントは、「では任せましょう」といいました。

ところが肝心のオノ・ヨーコさんが つかまらない。イギリスでのボランティアなどで多忙を極めていたんです。いつまで経っても次の打ち合わせが決まらないまま、いたずらに時間ばかりが過ぎていきました。業を煮やしたクライアントはいいました。「どうなっているんだ。このままだと君の会社を訴えざるを得ない」。ぼくは交渉の余地があるといっただけで、結果がどうなるかについては言及していなかったんですけどね。

訴訟をちらつかせられた上司は怯んで、「もう断わってしまえ」といいました。ぼくは上司の指示を無視して交渉を続行、すんでのところで契約にこぎつけました。17年間でもっともヒリヒリした仕事でした。目のつけどころといい、タフなネゴシエーションといい、アドマンとして持てる力を出しきった仕事でした。

なにかを捨てないと前に進めない

そのうち ぼくは会社に楯突くようになりました。先輩より結果を出しているのに査定は低かったし、そもそもビジョンが見えないのが許せなかった。会社というものは5年、10年先を視野に入れた行動が大切です。専務に直談判したら、「1年先だってわからない時代になにをいっているんだ」と けんもほろろでした。いいたいことは わかります。バブルが弾け、景気はどんどん悪くなっていた。だけど、ウソでもいいから理想を掲げるのが会社というものでしょう。

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最終的に不平不満ばかりいっている自分が いやになりました。だったら自分でやればいい。そのときぼくは38か39。40過ぎたら自由に動けないだろうと思った。結婚は はやくに失敗に終わっていましたし、子どももいない。いましかない。

ぼくは社長と話してみることにしました。その会社は社長が一代で築いたワンマン会社です。誰も逆らえない。ところが ぼくだけは違った。まるで『釣りバカ日誌』のスーさんとハマちゃんのような関係でした。週末にいきなり電話がかかってきて、一緒にサウナで汗を流して、そのまま居酒屋でご馳走になったりしたものです。

開口一番、「ぼくは社長になれますか」って尋ねました。社長には3人の息子がいましたが、継がせる気はないようでした。ということは、社員のなかから後継者を選ぶ可能性が高い。しかし、言下に否定されました。真意はわからなかったけれど、少なくとも ぼくが社長になる芽がないことはわかった。それでぼくは、ためらうことなく「では辞めさせていただきます」といいました。「辞めてどうするんだ」と聞かれたので、「道端で靴でも磨きます」と答えました。社長に放ったそのひと言は捨て台詞ではありませんでした。

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なにかを捨てないと前に進めないといったのはスティーブ・ジョブズでしたが、あらたになにかを始めようと思えば 地べたから這い上がる覚悟が必要だろうと考えたんです。

社長は考え直せといいましたが(他の社員を引き止めることはなかったそうだから、やはり目をかけられていたよう)、退社して1ヵ月で路上に出ました。

自分の人生を本にする

路上靴磨きの道は自分を追い詰めるだけに選んだわけではありません。それなりに勝算もありました。靴磨き界のスター、長谷川裕也さん(ブリフトアッシュ代表)がメディアに取り上げられるようになった時分だったんです。

退社を決めたぼくは長谷川さんに連絡しました。靴磨きを教えてくれないかって。返事がすこぶるふるっていました。「靴磨きなんて簡単ですよ。街に出て、座って、磨けばいいんですから」

源さん(井上源太郎。ホテルオークラに店を構える靴磨き界の大御所)のところにも客のふりしてお邪魔しました。ぼくの人生相談に源さんは鼻を鳴らして答えました。「いま、いくら稼いでいるんだ」。正直に伝えると「靴磨きはそんなに稼げるもんじゃない。辞めとけ」

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Courtesy of 天草製作所

そんなことでひるむほど やわじゃありません。ぼくは道具を揃え、YouTubeで磨き方を覚えて、中目黒の駅前で店開きをしました。

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恥ずかしさなんかありませんでしたね。わくわくしかありませんでした。手製の看板には 700円という磨き代と、“リストラされました”という文言を入れていました。ハッチャケていましたね。躁状態。

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Courtesy of 天草製作所

中目黒だけじゃなく、渋谷の109とか、原宿の明治神宮の入り口にも座りました。109は女の子しかいないエリア。お客さんなんかいるわけがありません。そのころは自分の人生が本になったら面白いかどうかをサイコロがわりにして、進むべき道を決めていました。明治神宮を選んだのには色気もありました。砂利で靴が砂まみれになるからニーズがあると踏んだんですけど、そうでもなかった。

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Courtesy of 天草製作所

いまでも折に触れて思い出すのが、たいへんお世話になったCMプランナーの村山孝文さんが靴を2足ぶら下げてやって来られたこと。会社を辞めて靴磨きを始めるという噂はあっという間に広まって、去っていた仲間や取引先もいっぱいいます。しかし それも当然でしょう。そんな奴がいたら ぼくだって頭がおかしくなったのかって思うに決まっていますから。そんななか、村山さんは来てくれた。この靴磨き屋はコーヒーも出さないのかっていうから、慌ててスタバに走りました。走りながら胸がじんわりとあたたかくなりました。

クラブ愛本店

一足700円でやってくるお客さんは 日に10人未満。これでは食えません。夜もやろうと決めてチラシをつくって営業にまわりました。大使館とか、需要がありそうな業界をかたっぱしから。そのうちのひとつがホストクラブでした。足を棒のようにして何軒もはしごしましたが、まったく相手にされません。最後の一軒がダメだったら作戦を練り直そうと門を叩いたのが"クラブ愛本店"。歌舞伎町を代表する老舗中の老舗です。

対応してくれたのは野口さんという常務。野口さんは いいました。「うちにどんなメリットがあるんだ」。ぼくは汗を垂らしながらプレゼンをしました。「お客さまをもてなす職業の人なら足元もきれいにしておかないといけません。お洒落は足元からっていいますから」。すると野口さんは「奥に専務がいるからその靴を磨いてみろ」と いいました。磨き終わった靴をみた専務は「おぉ、きれいになったな。いいよ。じゃ、今日から頼むよ」。商談成立です。

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Courtesy of 天草製作所

ぼくはトイレに続く廊下の一角を借りて道具を広げました。そうして接客を終えたばかりのホストの靴を順々に磨きました。

ショバ代? ありません。福利厚生の一環だったのかって? それも違います。ホストは自分の小遣いでぼくに靴磨きを頼みました。つまり店は一切関与せず、好きにやらせてくれたんです。お店もすごいけれど、ホストもすばらしい人ばかりでした。横柄な態度をとりそうなものですが、みな、ぼくを対等に扱ってくれた。口々に「ナンバーワンホストになったら靴をつくってもらうからね」っていってくれ、そして実際に3人の方の靴をつくらせていただきました(追ってお話ししますが、そのころぼくは次のステップとして靴づくりを学び始めていました)。

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Courtesy of 天草製作所

名物社長の靴も磨きました。なかなかのシークレット(上げ底)だった。すごいですねといったら、まあなと笑っていました。

クラブ愛本店はビルの取り壊しにともない去年の6月にいったん店を閉めましたが、場所を移して再オープンしました。いまも集荷というかたちで磨かせていただいております。ありがたいことです。

後編へつづく

Photo:Shimpei Suzuki
Text:Kei Takegawa
Edit:Ryutaro Yanaka

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西森真二(にしもり しんじ)
1969年熊本生まれ。1989年、広告代理店入社。2007年、38歳で退社。路上靴磨きを皮切りに、手製靴学校で靴づくりを、靴修理会社で修理技術を学び、2013年2月、西荻窪に天草製作所をオープン。2016年9月に注文靴と靴づくり教室に特化したファクトリーショップ、2017年8月に歌舞伎町靴鞄修理店をオープン。2020年8月、アマクサファクトリーCEOに就任。

【問い合わせ】
歌舞伎町靴鞄修理店
東京都新宿区歌舞伎町1-1-5 橋本ビル1F
03-5291-5755
営業:12:00〜20:00(土日祝〜19:00)
定休:無休
https://kabukichofactory.com



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