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FASHION 百“靴”争鳴

【シューメーカー 舘篤史】ギター一本抱えて東京に〜前編〜

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百靴争鳴。日夜美しい靴作りに情熱を燃やし合う、異色の靴職人たちへのインタビュー集。

のっけから衝撃的な告白が飛び出した舘篤史さんの物語。いまやヨーロッパにもその名が轟く舘さんは、ドラマ顔負けの波乱万丈な半生を歩んできました。

高一で中退

わたしは高校を中退しています。それも入学して数ヶ月で。というのも、彼女を妊娠させたことが わかったからです。わたしは彼女とこれから生まれてくる子どものために社会に出ることを選びました。

精密機械の検査業務、ピザの出前、イベントの警備。職を転々としつつ、10代なりの青春も謳歌しました。バイクの免許をとって、仕事終わりには街中でギターを弾いて、歌っていました。

地元福島でも路上ミュージシャンを ちらほらとみかけるようになったころで、中学でギターをかじっていたわたしは さっそく友だちとコンビを組んだのです。朝まで演って、そのまま仕事に出かける毎日でした。

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これがそこそこ評判になって、テレビでも取り上げられるようになりました。

深夜枠ですが、全国放送のドキュメンタリー番組にも密着された。怖いもの知らずの少年は東京で一旗上げることを決意します。ところがパートナーは首を縦に振りませんでした。いま付き合っている子と結婚したいから おれは東京にはいかない、というんです。20歳を少し過ぎたばかりのわたしは ギター一本もって、ひとり東京行きの電車に乗りました。

奥さんとは すでに別れていました。ドラマのようなほんとうの話ですが、仕事を終えて家に帰ると、部屋は もぬけの殻でした。好きな男ができたと書き置きだけ残して。そんな終わりかたでしたが、その後もほそぼそと交流はつづきました。困ったことがあったら相談にも乗ってきました。彼女が連れていった子どもも すでに成人しました。

手縫いのボストンバッグ

肝心の東京での音楽活動は ちっともうまくいかなかった。憧れの東京をこの目でみたい、という思いが背中を押したものの、隣にパートナーがいない喪失感は大きかった。

パチンコ屋のアルバイトで生活費を稼ぎつつ、わたしは興味のあることになんでも手を出しました。いまもつづくアクアリウム、カメラ、PC……。

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そのひとつがレザーグッズでした。パチンコ屋の同僚に、近所にクラフトショップがあるから一緒にやらないかって誘われたんです。いま思えば わたしは革に興味があったんだと思います。近所のユザワヤでは皮革関連のコーナーが妙に気になったものでした。

革を買って、道具を買って、ハウツー本を買って見よう見まねでつくってみました。たしか最初につくったのは カードケースだったんじゃないかな。これがまわりから好評で、材料代を出すからつくってよと頼まれるように。コツコツやって、ひとつのプロダクトができあがる。そのプロセスに面白みを感じたわたしは どんどんハマっていきました。

あるとき、いまも俳優としてがんばる友だちから仕事に使うボストンバッグをつくってほしいと頼まれた。これが大変でした。それまでは小さなものばかりだったから なんとかなりましたが、わたしがつくるレザーグッズは すべて手縫いだったのです。

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これでは埒が明かないと、わたしは工業用ミシンについて調べるようになりました。そうして職業訓練校の台東分校の存在を知り、受験します。結論からいえば、台東分校の試験には落ちたんですが、靴も手でつくれると知ったわたしは これを仕事にしようと決めました。

ほんとうに好きなことを仕事に

福島の時代には職を転々としたわたしですが、上京して勤めたパチンコ屋には靴職人として独り立ちするまでお世話になりました。かれこれ7年。ちょっと怖そうなイメージがあるかも知れないけれど、じつは社会の目が厳しいから よほどホワイトなんです。だから、給料もいい。仕事も面白かった。接客業は楽しかったし、パチンコ台のメインテナンスに携われるのも よかった。

父がカーステレオの会社に勤めていて、小学生のころからハンダゴテで遊んでいたりしたので もともと機械いじりが好きだったんです。バンドを組んでいるときはエフェクターも自作していましたね。

社員にならないかと誘われたこともありましたが、生涯の仕事として考えたときには、どうしても踏み切れなかった。

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しかし いい加減身を固めなければならない。パチンコ屋で知り合った女の子と結婚したかったんです(結局振られたそうですが、舘さんに感化されて業界に片足突っ込んだ彼女はとうとう製甲屋として独立を果たしたそうです)。

正社員として働けるところを探して、めぼしい企業に履歴書を送りました。面接は3月12日に決まりました。2011年のことです。

その前日に起きた東日本大震災で 面接は立ち消えになりました。

価値観が音を立てて崩れるとは このことでした。福島で生まれ育ったわたしにとって この震災は対岸の火事ではありません。人はいつ死ぬかわからない。わたしは ほんとうに好きなことをしようって決めた。それが、靴職人という道でした。そして2012年、台東分校を受験しました。

けっこう勉強して臨んだんで、筆記試験はうまくいった。だから面接で落とされたんだと思います。思い当たる節はあります。台東分校は産業の維持・発展を目的としたもので、工場で働く人間の養成を建前にしています。にもかかわらず、そういう成り立ちを理解していなかったわたしは、ビスポークシューメーカーになりたいって高らかに宣言したんです(笑)。

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受験会場で生徒募集のチラシを配っていたのが巻田工房でした。主宰する巻田庄蔵さんは60年のキャリアがあり、東京都公認指導員免許をもつ数少ない職人のひとりです。わたしは迷うことなく巻田工房の門を叩きました。

打ちのめされた修業時代

はじめての靴づくりは、想像をはるかに超えて大変なものでした。すくい縫いも出し縫いも めちゃくちゃ体力がいるし、アッパーの設計が悪ければ釣り込めないし、そもそも道具さえまともに使えなかった。なにからなにまで わたしを打ちのめしてくれました。

しかし これに耐えてがんばっていると物足りなくなってくる。工房に通うようになって1年と半分が過ぎたころでした。もう一段上の環境に身を置きたい。それにはプロの世界がふさわしいんじゃないか。そう考えたわたしは、専属の職人を探していた靴店に飛び込みました。そして またわたしは、打ちのめされました。

前任の職人からの引き継ぎが3ヶ月あったんですが、とてもじゃないけれど追っつかない。まだまだプロには及ばないレベルでした。すくい針は しょっちゅう折れて、研ぎ直すだけで日が暮れる。釣り込みに8時間、つまり1日かけても まとまらなかった。朝は手が痺れて動かない毎日でした。それで給料をもらうんだから、プレッシャーも相当なものでした。

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針は折れても、心は折れませんでした。一刻もはやく一人前になりたいと考えて 閉店後も工房を使わせてほしいとお願いしましたが、テナントのその店は防犯上不可能でした。限られた時間で、悪戦苦闘しました。

そのころから、針と糸と革さえあればできるライトアングルステッチを家でも練習するようになりました。もっとも高度な技が求められるスキンステッチ(革を貫通させない縫製方法)です。

できる人が少ないようですし、極めることができれば武器になる。すでに日本には多くのビスポークシューメーカーがいます。総合点では負けても、1つ、2つ、秀でることができれば、道は拓けると思ったんです。

Photo: Shimpei Suzuki
Text:Kei Takegawa
Edit:Ryutaro Yanaka

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舘篤史(たて あつし)
1983年、福島県生まれ。ミュージシャンを目指して21歳で上京するも挫折、パチンコ店で働きながら進むべき道を模索する。レザーグッズづくりに出会い、ほどなく靴の世界へ。製靴教室で学んだのち、靴店専属の職人を経て2015年に独立。2018年にオリジナルブランド、サンタリをローンチ。北欧を代表するノルウェーのスコマーケー・ダゲスタッドで扱われている。

【問い合わせ】
Tateshoes
東京都台東区橋場1-30-1
03-6321-6561
https://santari.jp



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