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百“靴”争鳴

【スタンフォード大からビスポーク靴職人に】セイジ・マッカーシー「ビスポークシューズ業界のアドルフ・ダスラーになりたい」〜後編〜

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百靴争鳴。日夜美しい靴作りに情熱を燃やし合う、異色の靴職人たちへのインタビュー集。

スタンフォード大学を出て、NBAのビジネスコンサルタントとしてばりばり働いたセイジ・マッカーシー。彼が靴職人として独立するまでの歩みはさながら茨の道でした。しかしほどよく足裏のツボが刺激されたのか、独り立ちしたいまは群雄割拠の業界のなかでも数本の指に入るひとりに。
前編はこちら

2012年のクリスマス

靴職人になる──そう決めたぼくはとるものもとりあえず北京に飛びました。その地で仕事をしている奥さんにぼくの考えを伝えるためです。奥さんは、二つ返事で賛成してくれました。

ドイツ人の彼女とは学生時代にバックパッカーで訪れた中国で出会いました。泊まったユースホステルの向かいのベッドで寝ていたのが彼女だったのです。ぼくは一目惚れして、それからずっと一緒にいました。

彼女はベルリンにいきましょうといいました。ベルリンは彼女が生まれ育った街。その街は物価が安く、とても暮らしやすい。それにあなたのようなクリエイティブな仕事を目指す若者が多く暮らしているからと彼女はいいました。ドイツの文化を伝える仕事をしていた彼女はさっそく本社に戻る手続きをしました。ぼくは迷うことなくベルリンへいきました。

ところがいってみれば、靴職人を目指すぼくにはふさわしい街とはいえなかった。技術を学ばせてくれる職人なんかいないし、マーケットもとても貧しいものだった。

ぼくは近隣の国々に目を向けて、いくつかの手製靴工房とコンタクトをとりました。迎えてくれたのがイギリスとハンガリーの工房でした。

基本を学んだぼくはベルリンに工房を構えました。といってもお客さんをとるためじゃありません。あくまで自分の腕を磨くためです。だから数人お客さんが訪れたこともあったけれど、すべてお断りしました。生活費はミラノで学んだパターン・メイキングの仕事でなんとか捻出する日々。オーソペディの工房のアウトワーカーをやっていました。

転機は2012年のクリスマス。久しく会っていなかった祖母に顔をみせようとぼくは日本を訪れます。せっかく日本に来たんだからと気になっていた靴職人にアポイントメントを入れました。それが柳町(弘之)さんでした。

独学に限界を感じていたぼくは、そろそろイギリスあたりの工房で働かせてもらおうと思っていました。しかし柳町さんに会ってぼくの考えは変わりました。会ったその場で、靴づくりを教えてくださいとお願いしたんです。

つくられている靴のように、柳町さんの人柄はとにかく素敵でした。そしてじっさいにお世話になるようになって、それは営業スマイルではなく、ほんものだとわかりました。ヒロ・ヤナギマチの工房はとにかく雰囲気がいいんです。

日が落ちた公園はとってもさみしかった

それからぼくは日本とベルリンを行き来し、ボトムメイキング、ラストメイキング、パターンメイキングと順々に柳町さんのものづくりを吸収していきました。目が開かれる思いとはこのことです。ぼくはみるみる靴づくりを身につけていきました。

ようやく自信を深めた矢先に、またも大きな事件が起こります。ベルリンに帰ったぼくを待っていたのは、離婚という二文字でした。

ひとりになったぼくはある日、できあがった靴から木型を抜いてテーブルに置きました。まだまだ納得のできるものではありませんでした。ぼくは買い物の帰り、近所のベンチに座りました。奥さんに逃げられ、お金もほとんど底をついた。そうまでして選んだ靴づくりはちっとも上手くなっていない。なんのためにぼくはすべてを捨てたんだろう。そう考えると、涙がとめどなくこぼれました。そのうち狼のように叫んでいました。日が落ちた公園はとってもさみしかった。

だけどぼくは、靴づくりをやめないと誓った。自分でもその決断には驚きました。次の日の9時にはいつものように工房にいって靴をつくりました。職人にとって継続はまことに力なり、ですからね。雑念を振り払うように、一心不乱に革と格闘しました。

そんなぼくに友人は日本で旗揚げすればいいじゃないかといった。なるほどと思って柳町さんに相談すると、あたたかく迎えてくれました。しばらくして柳町さんはいいました。ほんとうに日本でやってみたいならワールド フットウェア ギャラリーを紹介するよと。

神宮前本店の2階に工房を構えたのは2016年2月のことでした。

お店のアイデアで、お披露目にあたってお試し期間を設けました。すこしプライスを下げたんです。おかげさまで2ヵ月で15足。たいへんだったけれど、数をこなすことで腕が安定しました。現在の納期は1年待ちとなっています。

木屑や革屑を掃除する毎日に生きがいを感じる

これまではエドワード グリーンのようなエレガントでクラシックな靴を目指していました。到達点が、このキャップトウ。シームレスヒールで、装飾は一切ありません。意味のないデザインはいりません。だから、フィドルバックには興味がそそられません。

ぼくはいま、アメリカントラッドを自分なりの技術と感性で再解釈したいと企んでいます。

紳士靴のデザインは出尽くしたといわれるけれど、そうは思いません。たとえばウィングチップ。カーブの角度をちょっといじっただけで印象はがらりと変わる。いくらでもやりようはあるはずです。げんにいまぼくの頭のなかにはいくつものアイデアがありますしね。

アディダスの創業者、アドルフ・ダスラーは数多くのマスターピースを創造しました。一足でもいい。ぼくもこの手でマスターピースをつくりたい。

正確なステッチピッチは日本人の血がなせる技でしょう。柳町さんに褒められたことはあるか、ですか。う〜ん、あるかも知れませんね。え、そのていねいな仕事がアメリカン・プロダクトの味を損なうことになるんじゃないかって。いや、半分はアメリカ人の血が流れていますから、いい具合でかたちになるだろうと、そこはポジティブに考えています。

紆余曲折ありましたが、ようやく生涯をかけるに足る仕事をみつけました。この仕事はお客さんの喜ぶ顔がみられますし、仕事終わりに木屑や革屑が出るのもいい。掃除をしていると、今日もよく働いたなって充実感が得られる。

アメリカへの進出を視野に入れてはいますが、暮らすのは日本。ここまで審美眼が高い国はほかにはないということ、わかりあえる同業者がたくさんいるということが理由です。あ、大切な彼女もいますしね(笑)。

両親は医者にはならないと決めた時点ですべてを受け入れる覚悟ができていたようです。いまはあなたが楽しく暮らしているならそれが一番と、先日アメリカに帰ったときもいっていました。

<セイジ・マッカーシー:オーダー方法3種>
Made-to-Order:26万円(税抜)
Made-to-Measure:28万円〜(税抜)
Bespoke:38万円(税抜)
※すべて純正シューツリー付

Photo&Video : Naoto Otsubo
Text:Kei Takegawa
Edit:Ryutaro Yanaka

セイジ・マッカーシー
1976年、コネチカット州生まれ。スタンフォード大学卒業後、英語教師、NBA、ならびにNBA CHINAのビジネスコンサルタントを経て靴職人の道を志す。2016年、ワールド フットウェア ギャラリー 神宮前本店のマエストロオーダーサロンにアトリエをオープン。

【問い合わせ】
ワールドフットウェアギャラリー 神宮前店
渋谷区神宮前2-17-6 神宮前ビル 1F
03-3423-2021
http://www.wfg-net.com
http://www.seijimccarthy.com

 







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