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LIFESTYLE 落語へGO!

玉の輔の「落語へGO!」其の四 
前座とか真打ちって何?

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落語ブームと言われて久しいが、もうブームではなくすっかり人気は根づいている感がある。若者の街でも落語会が定着してきた。若い男女は「おもしろい」と聞けばどこでも出かけていく。出遅れてしまったあなた、今からでも遅くはない。この奥の深い落語の世界、オトナだからこそ楽しめるんだから。落語協会理事でもある五明樓玉の輔(ごめいろう たまのすけ)師匠に落語の楽しさ、味わい方を案内してもらった。

噺家になるには?

噺家は階級制度があるんです。「見習い」「前座」「二ツ目」「真打ち」の4つです。
まずは師匠のところに行って弟子入りを許してもらい、師匠が協会に入門者の履歴書を提出すると、「見習い」となります。これは師匠の鞄持ちみたいなもの。まだ噺家ではありません。着物の畳み方や落語界のしきたりみたいな基本的なことも勉強します。前座になったとき、すぐに楽屋で働けるようにしておくわけです。この世界でやっていけるかどうか、入門した者も師匠も考える時期でもありますね。

前座の中から二ツ目に上がる人がいると、見習いも前座に上がることができます。人数のバランスなどがありますから、なかなか階級が進まないこともあるんですよ。昔は見習いの期間が3年なんて長かったんですが、今は1年とかでしょうかね。

ちなみに、東京には「落語協会」と「落語芸術協会」のふたつがあります。定席の寄席4件は、例外を除いてこのふたつの協会に所属する噺家で構成されます。ちなみにボクは落語協会です。

ボクが師匠の春風亭小朝に弟子入りしたのは、高校を卒業して間もなくです。師匠の事務所を自分で調べて行きました。そうしたら事務所の人がいついつだったら本牧亭(2011年閉場)に出ますよと言ってくれたので会いに行って。ひとりで行ったので、「今度は親を連れてきなさい」と。楽屋の前で待っていて、何度も断られたなんていう話を聞きますが、ボクはそれほど苦労しませんでした。うちの師匠は弟子にするかどうかは第一印象で決めるらしいです。

当時、圓太郎兄さんが内弟子としていましたが、ボクが入門したときはすでに師匠とは別にひとり暮らしをしていたので、ボクは師匠と3年くらいふたりきりで暮らしていました。
見習いになってわりとすぐに「春風亭あさ市」という名前をもらいました。4月に入門してその年の9月に前座として寄席で楽屋働きをするようになったので、前座までわりと早かったですね。初高座は師匠の会で、(新宿)紀伊國屋ホールでした。「桃太郎」をやったんですが、途中で2、3回ループしたような気がします。緊張していましたからね。

前座になると、寄席の楽屋入りを許されます。毎日行きますから休みなんてなかったですね。師匠の家はマンションでしたが、朝起きると、スポーツ紙と週刊誌を全部買っておく。それから掃除したり朝食の準備をしたり。

師匠は決して厳しくはなかったけど、感覚が普通と違うんです。あのころ、師匠もまだ30歳くらいだったんですよね、今思うと。高校に通いながら前座修行をしたような人ですから、天才なんですかねぇ。25歳のときに36人抜きで真打ちになった。うちの師匠は客として聞いていて、とにかくおもしろかったですね。

ただ、師匠はやたらと忙しかったので、留守のときはたまに友だちに会ったり、バッティングセンターに行ったりしたこともあります。ただね、今と違って携帯電話がなかったから、師匠がいない間は基本的に家にいなければいけないんです。いつ師匠宛、もしくは師匠本人から電話がかかってきて「あれ用意しとけ」なんて言われるかわかりませんから。抜け出せてもせいぜい30分くらい。決して自由に出歩いたりはしてませんよ。

どうしても落語が好きで好きでたまらないというタイプじゃないですよ、ボクは(笑)。むしろ落語家が好きなのかもしれない。不思議なものでね、落語が好きでたまらなくても入門してから辞めちゃう人もいるんです。人間関係が濃い世界だからですかねえ。向き不向きがあるのかもしれませんね。

うちの師匠は、あまり直接の稽古はしませんでした。他の師匠のところも同じですが、みんなそれぞれ師匠が好きで弟子になる。だから直接教わると、本当に真似になってしまう。師匠方はそれをわかっていますから、なかなかじかに教えないものなんですよ。前座時代は、よく他の師匠に噺を教わりに行きました。前座は、どの師匠に教わってもいいんです。

ただ、ボクはあまりマジメな弟子ではなかったので、「からぬけ」のような短い噺を「オレが風呂に入っている間に覚えとけ」とうちの師匠に言われたり、師匠が作った噺の録音テープを昼間もらって「夜までに覚えて高座にかけなさい」と言われたこともあります(笑)。あとで見て直してくれるんですけどね。

二ツ目になると

ボクの場合は、前座を4年ほどやって、89年に「あさ市」の名前のまま二ツ目になりました。
二ツ目になると師匠の家から独立します。前座時代に通いだった人は師匠の家に行かずにすむようになる。なんとなく解放感はありますね。ボクは前座としての最後の1年は師匠の家を出て近くに住んでいました。

二ツ目は羽織を着てもいい、自分の出囃子ももてる。いっぱしの落語家になった気分です。ただ、前座時代は寄席に通ってお給金もいただけましたが、二ツ目は楽屋働きもなくなるし、ここからはひとりでやっていかなければならない。勉強会をたくさんやって自分を磨くと同時に、他の師匠の落語会に呼んでもらったり独演会を開いたりして生活も自分でやりくりしていく。この時期はけっこう大変なんです。ボクの場合は弟弟子がいなかったので、二ツ目になってからもよく師匠の仕事についていっていました。だから高座に上がる機会もありましたね。

真打ちに

二ツ目から9年半、98年に五明樓玉の輔として真打ちになりました。『五明樓玉輔』はボクの大師匠(師匠小朝の師匠)である春風亭柳朝(五代目)がもともと継ぎたかった名前です。ご遺族がいらっしゃいましたので、うちの師匠が調べてくれてボクが直接うかがって許可していただきました。『玉輔』という名前ははちょっと荷が重いと思って『の』を付けました。

名前というのはいろいろですよ。二ツ目から真打ちになるとき、名前が変わることがほとんどですが、なかには変えない人もいます。新しい名前を師匠がつけてくれる場合もあるし、自分で提案することもある。ボクもそうですが、亭号(屋号)まで変わることも珍しくはないですね。紋も、だいたいは師匠の紋を受け継ぐけど、とくに決まりはありません。

真打ちになると、お披露目をします。
ボクの場合は4人一緒に真打ち披露でした。都内の定席4ヵ所、それぞれ10日間、お披露目をします。ボクのときは、初日の口上で高座に9人も並んだので、上野の鈴本演芸場の支配人が「これは記録だ」と驚いていました。当時落語協会会長だった圓歌、志ん朝、金馬、馬風、こん平、今の木久扇、扇橋、うちの師匠小朝、そしてボク。池袋演芸場では、なんと五代目小さん師匠も口上に並んでくださいました。ありがたいことです。

真打ちになるときは関係者やお世話になった人たちに手ぬぐい、口上書、扇子をセットにして配ります。落語協会全員、落語芸術協会の真打ち全員など、すごい数になるんですが、扇子は師匠がプレゼントしてくれました。師匠にはいろいろしてもらっていますね。二ツ目時代にも師匠からはずいぶん着物もいただいています。

真打ちになってもホッとはしませんね。そこからがスタートですから! 五明楼玉の輔という名前、最初は違和感がありましたが、もう20年もたちましからね。今ではすっかり慣れました。

──つづく──

photos:Shimpei SUZUKI
text:Sanae KAMEYAMA

五明樓 玉の輔(ごめいろう たまのすけ)
1985年4月、春風亭小朝に入門。同年9月、前座となる。前座名は「あさ市」。1989年5月、あさ市のまま二ツ目に昇進。1998年9月、真打昇進。五明樓玉の輔となる。2010年、落語協会理事に就任。サッカー好きで、サッカーイベントや番組司会等でジーコに浴衣をプレゼントしたこともあるが、現在入れ込んでいるのはゴルフ。シミュレーションゴルフには三日にあげず通い、日々スコアアップをしているとかいないとか。業界でも有名な手ぬぐいマニアで、デザインも多数手がけている。1966年横浜市生まれ。五明樓玉の輔の『噺家の手ぬぐい』https://tamanosuke.net/



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