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CAR Dr.ノリシゲの妄想ドライブ

マクラーレンから新型登場!この機会にマクラーレンのロマンあふれる歴史を学びましょう!

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説明しよう! 妄想ドライブとはヴェテラン モータージャーナリスト・ノリシゲセイイチが「このクルマにのったら、こんなことをしたい。こんなところに行きたい。この街道でぶっ飛ばしてチャンネーとこんなことがしたい!」と妄想の世界に遊ぶ気絶コラムである!

ハイパーなクルマで妄想MAXなカーライフを!

マクラーレンから弩級のモデルが登場です。その名は「McLaren Speedtail」。同社のロードモデルは上から順に、アルティメット、スーパー、スポーツという3シリーズで構成されますが、“スピードテール”は更に上をいく“ハイパーGT”にカテゴライズ。

McLaren Speedtail
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まさに流線型と呼ぶにふさわしいそのデザインは、一時代を築いたグループC時代のモンスターマシンに近く、ル・マン仕様を彷彿させる最大限に空力を考慮したロングテールが目を引きます。

McLaren Speedtail
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パワーユニットはハイブリッドシステムで最高出力が1050ps、最高速度が403km/h……など、数字の部分は既に多くのメディアが伝えているので割愛しますが、詳細なスペックの発表はこれからです。

ただし、106台という限定販売台数とそのすべてが完売であることは動かしがたい事実のようです。気になる価格は庶民には宝くじ級の175万ポンドから。

McLaren Speedtail
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コクピットの特徴は、同社初のロードゴーイングモデル「F1 (1993-1998)」同様にドライバーを中央に設定し重心マスを最適化。トライアングルな3名乗車スタイルが特徴です。シンメトリーな視界はフォーミュラカーそのもので、限りなくドライバーの妄想を掻き立てます。

McLaren Speedtail
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夢のスーパーカー対決はコチラ!

【Ferrari Enzo vs McLaren F1 - Fifth Gear】

無論、ワタシなら美女二人と3名乗車で・・・という夢を必ず成就させます。間違っても3匹のおっさん状態では乗りません(キッパリ)。

McLaren Speedtail
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で、マジメに検証するとこの106台という数字、聞けば先人を務めたF1とほぼ同じ数字だといいます。音速の貴公子から名をいただいたセナが500台ですから、マクラーレンの良き理解者であるVIP客=F1所有者と考え、熱烈なファンを大切にするにはコレが適切な数字といえるのかも。

McLaren Speedtail
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ところで、一度皆さんに聞いてみたいのが、マクラーレンのブランドイメージです。確かにスゴイ!ことは伝わると思うのですが、フェラーリやポルシェほどカリスマ性を感じない方が多数派ではないか? と思うのです。

そこでお届けするのが超ダイジェスト版、マクラーレンの創始者「ブルース・マクラーレン物語」です。

Bruce Leslie McLaren
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ブルース・マクラーレンは1937年8月30日、ニュージーランドで生まれました。もともと英国に住んでいたそうですが曽祖父の時代に移住。そんな彼がモータースポーツに目覚め、その活躍から奨学金を得て渡英したのは1958年のことです。

手っ取り早く理解したい方はコチラ!

【マクラーレン~F1に魅せられた男~ (字幕版) - 予告編】

1959年、所属していたクーパー・カーズからF1参戦。最終戦アメリカGPで優勝すると同時にF1初勝利最年少記録(22歳と104日)を更新。この記録はフェルナンド・アロンソ(21歳と237日)に破られるまで、約43年間も破られることがありませんでした。

翌1960年はシリーズタイトルに手が届かなかったものの、安定した速さでランキング2位を獲得。しかし、やがてチームは徐々に下降線をたどり低迷。しばし、苦汁を飲むことになります。

Bruce Leslie McLaren
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「オリジナルマシンで優勝したい」という希望を胸に、ブルースは仲間たちと1963年に自チームを結成。1966年には無事コンストラクターとなり新たな船出を迎えます。しかし、シャシーを作れてもエンジンは他から融通せねばならないのは当時も今も一緒。苦戦を強いられます。

しかし、やがてその苦労が報われることに。

欧州と並行して活動の場を求めた北米カンナム・シリーズでは、1967年から1970年まで、マクラーレンのマシンは4連覇を達成。この内、2シーズンはオーナー・ドライバーのブルース自らタイトルに輝きます。

MS Opresents Concours Condition McLarenF1
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F1では1968年にチームメイトがタイトルを争い、自信もNo.2ドライバーを務めベルギーGPで優勝。ますますの活躍が期待されていました。しかし、誰も運命を変えることはできなかったようです。

1970年6月2日。ブルースはテスト中の事故により、享年32歳という若さで帰らぬ人となります。妥協なき完璧なロードカーを作るという夢を残したままに・・・。

❝Life is measured in achievement, not in years alone. ❞

ブルース・マクラーレンの生涯を描いた映画、「マクラーレン~F1に魅せられた男~(邦題)」では、「人生の価値は長さじゃない。何を成したかだ」と訳されています(この言葉は前後がありますので、おそらくインタビューコメントの抜粋だと思われます)。

悲劇の足音に気付かぬまま晩年のブルースは、欧州・北米と2つの大陸で戦いながらも、ロードゴーイングモデルの開発を進めていました。

McLaren M6GT
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このプロトタイプ車両「McLaren M6GT(1969-1970)」は、ブルース自信が日常の足に使いながら熟成を進めていたのですが、カンナム・シリーズに対応したホモロゲーションモデルという役割もあり、さらにはリーダーを失って計画が頓挫。幻の名車となってしまいます。

マクラーレンのロードモデルの起源はコチラ!

【McLaren M6GT at McLaren Newport Beach】

ブルース亡き後、求心力を失いかけたチームですが、遺族の強い意向もありメンバーは戦い続けます。そして、1974年。ついにマクラーレンのマシンが、エマーソン・フィッテパルディのドライブで初のF1シリーズタイトルを獲得するのです。


MS Opresents Concours Condition McLarenF1
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その後は皆さんも御存知のようにロン・デニスが合流し現在に至るのですが、マクラーレンは控えめな英国流を貫いているのか、ブルースが残した遺産をあまり活用しません。マクラーレンというブランドに今ひとつカリスマ性を感じないのは、こんな習慣が影響しているのかも知れません。

ブルース・マクラーレンの祖国ニュージーランドでは、彼の功績を称えるように、彼の名を授けられた公園や学校などのパブリック施設がいくつも存在します。

MS Opresents Concours Condition McLarenF1
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現在のF1チームの低迷とは裏腹に、ロードカーを作るマクラーレン・オートモーティブの販売台数はうなぎ登り。世界経済さえ堅調ならフェラーリの背中が見えてくるでしょう。

個人のカリスマ性は危うくもありますが、名ブランドには少なからず魂が宿るもの。マクレーレンはブランド誕生から優に50年以上を経過し、さらなる発展が期待され、それを待ち望む人々がいます。夢の続きはこれからです。

個人的にひとつだけ苦言を申し上げれば、マクラーレンのプロダクトは全車似過ぎていること。ソコを逆手に取れなくもありませんが、もうチョットだけなんとかしてください!

Text:Seiichi Norishige

マクラーレン・オートモーティブ
※車両に関する問い合わせは正規ディーラーまで。

【McLaren Speedtail】



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