カリスマ亡きフェラーリの行方
数あるスーパーブランドのなかでも、フェラーリほど特異なブランドはないかも知れません。それは好き嫌いを超越した、まさにスーパーな存在です。日本ではクルマと縁遠いオッサンたちにもシャネルと同程度の知名度はあるのではないでしょうか。
昨年、創業70周年を迎えたフェラーリですが、今年の8月14日は特別な日でした。カリスマリーダーであったエンツォ・フェラーリ生誕120周年、そして、没後30年という節目だったのです。
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創設者であるエンツォ・フェラーリは、1898年2月18日モデナで生まれました。ファミリーネームのフェラーリはイタリア語で鉄を表すFerroに由来するそうで、父親のアルフレードは小さな金属工場を経営していましたが、決して裕福な家庭ではなかったそうです。
エンツォがモータースポーツに魅了されたのは10歳のとき。父と一緒にボローニャでレース観戦したのがきっかけとなりました。その姿はごくありがちな週末の光景のひとコマだったことでしょう。
1916年。エンツォに悲劇が降りかかります。父を病で、兄を戦争で亡くします。自身も徴兵されましたが、インフルエンザに倒れたことが幸いしてか、無事に終戦を迎えます。
やがて平穏が訪れ21歳になったエンツォは、その情熱からイタリア最大の自動車メーカーであるフィアットの門を叩きますが、希望叶わず採用されませんでした。そして、職を得たのはミラノの自動車メーカーであるCMNであり、テストドライバーを努めながらレースに参戦するようになります。
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1920年。当時の新興自動車メーカーであったアルファロメオに移籍します。ますますレース活動に邁進することとなるのですが、レース活動を通じ気付いたのは、新たなエンジニアの必要性でした。
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そこでエンツォは社長のニコラ・ロメオの承諾を得て、栄華を誇っていたフィアットのチーフエンジニアであるヴィットリオ・ヤーノのヘッドハンティングに乗り出します。彼の自宅を訪ねると、エンツォがドライバーとして活躍していたことをヤーノ自身が知っていたこともあり、レース談義に時間は過ぎていきました。
そして二人の会話はいよいよ本題に。最初は色良い返事をもらえなかったそうですが、結果としてヤーノの移籍に成功。やがてアルファロメオは黄金期を迎えます。
一時はアルファロメオのワークスチーム「アルファコルセ」をマネージメントする立場になったエンツォですが、意見の相違から決別。1939年に同社に退職することになります。
この間も紆余曲折をあるのですが、それはまた別の機会に譲るとして、1929年にレース仲間と結成していた組織「スクーデリア・フェラーリ」が、自らレースカーを作り参戦するコンストラクターとして本格的に始動します。
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アルファロメオ退社時に「4年間はフェラーリの名でレース参戦しない」という誓約から、アウト・アヴィオ・コルトルツィオーという車名で1号車を完成させ、1940年のミッレ・ミリアに参戦。しかし、いよいよこれからというタイミングで、またもや大戦に巻き込まれ中断を余儀なくされます。
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戦後フェラーリの活躍は皆さんもご存知のとおりですが、ル・マンだけでも通算9勝とF1以外のカテゴリーの成功もあります。レースで勝利を重ね、市販車を売るビジネススタイルのアイディアは、スクーデリア・フェラーリの同志であったルイジ・キネッティの発案といわれます。
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子供の誕生を境に妻との約束からドライバーを引退しマネージメントに集中していたエンツォですが、またもや彼を悲劇が襲います。1956年6月30日。最愛の一人息子、アルフレードを病で失います。
余談ですが、フェラーリ家は代々長男にアルフレードと名付ける習わしがあり、そのアルフレードの愛称がDino(ディーノ)なのです。スーパーカー世代にはお馴染みの車名ですね。
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栄光と悲劇に包まれたエンツォ・フェラーリという物語は、氏の生き様そのものがカリスマ性に溢れたものであり、また、プロダクトの魅力と相まってブランドの付加価値を高めています。
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将来的にカリスマCEOを望まない社会が訪れるかも知れませんが、ひとは夢を見る生き物です。現在のフェラーリは、振り返れば成長著しいランボルギーニやマクラーレンといったブランドの追い上げも考慮する必要があるでしょう。
フェラーリがフェラーリであるために、いま何が必要なのでしょうか。そんなことを考えさせられるエンツォ・フェラーリ没後30年目なのです。
Text:Seiichi Norishige
フェラーリ・ジャパン
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