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BUSINESS 高橋龍太郎の一匹狼宣言

Vol.4「美は乱調にあり、文化は集中にあり」高橋龍太郎

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文化庁は京都ではなく首都東京にあるべきなのだ

1974年8月2度目の医学生時代、愛車のおんぼろMGマークⅡを駆って郡山のロックフェスに出かけたことがあった。オノ・ヨーコが出演すると聞いて出かけたのだが、その時何を聴いたのか殆ど思い出せない。オノ・ヨーコの叫びだけは聴いたような記憶もあるのだが、当時は上田正樹や憂歌団のようなブルースバンドのおっかけだったので印象に残らなかったのだろう。

あれから42年。今年の1月から2月にそのオノ・ヨーコの回顧展と村上隆の『五百羅漢図展』と『スーパーフラット・コレクション展』がくつわを並べて開かれた。 

オノ・ヨーコのコンセプチャルな作品の中では「穴」と題した作品がとりわけ印象的。

そこには銃弾によって作られたガラスのヒビが異様な美しさとなって刻まれていた。

お椀と水を使った「私たちはみんな水」も見事だ。

現美の巨きな空間をオノ・ヨーコが抱え込んで、しかも静溢な場として支配していた。

この静溢の対極にあるのが村上隆のコレクション展の混沌だ。

「蕭白、魯山人からキーファーまで」とサブタイトルが付いている通り古今東西の傑作と骨董品がぎっしりと並んでいる。圧倒的なのは勿論キーファーだが、村上とほぼ同世代のジャン・ホアンの巨大なスフィンクスを思わせる革製の像にも驚かされる。

しかし今回の白眉は李禹煥(リ・ウーファン:韓国出身。日本を拠点に世界で活躍している芸術家)だろう。これだけの緊張感があって美しいインスタレーションを私は知らない。李禹煥の最大傑作と私には思える。

しかし1100点にも及ぶコレクションを一同に会したなかの圧巻は第5展示室の「村上隆の脳内世界」と題されたインスタレーションだ。

(撮影:田中雄一郎)

マシュー・モナハンの「大きな鷹匠」、ヨアンナ・マリノフスカ「偽りのつつましさ」を中心に小出ナオキの小さな鳥の彫刻や常滑焼の松下昌司による20組もの狛犬が所狭しと600点並ぶ。天井まで人形や陶器が埋め尽くすように飾られている。

カイカイキキのスタッフが総出で丸1週間不眠不休でつくり上げたと聞くと、美術館の展示のルーティンをかくも鮮やかに超えていったことに驚かされる。

村上は地震を想像しないのだろうか。

いや、むしろ大地震で天井から次々に陶器が落ちてしまって、あらゆる美が一瞬に砕け散る背筋が凍るような悪夢をどこかで望む破滅願望があるのではと想像もしたくなるのだが、それは杞憂らしい。

カイカイキキの専門家が陶器の高台に、すべて特殊ワックスを埋め込んで震度6までは耐えられるとのこと。でもそれを超えたらどうなるのか。まさに怪々奇々。

村上隆の脳内世界

しかしこの部屋が村上隆の脳内世界と呼ばれるのは、東西の名作、現代の名品、あるいは名もなき職人によって作られてた日常的な民具、雑具、ありとあらゆるものを隙間なく埋め尽くすことで、作品の枠組みや評価を無視してスーパーフラット化させているところにある。「芸術とは」「美とは」と真剣に問いつづける村上隆の姿勢をそのまま表現できている。

これは凄い。

骨董から、バーゼルまで世界中の美の商品を丹念にコレクションしては自分の脳内にため込んでいくとなると、村上の脳はまるで森のようになってしまうことだろう。

まさにここにあるのは創造のための深い森である。こんなに混沌としながらも何か強い意志に導かれて統一された場を見たことがない。

多分これから100年に亘ってもこれだけの深い芸術の森を美術館でみることはできないだろう。私たちはその奇跡に出会える幸運に感謝すべきだ。ここには混沌でありながら森の静溢がある。

日本現代アートシーンへの懸念

ただ気になったところがひとつ。欧米の現代アートはシュナーベルからダミアンハースト、マーク・グロッチャンと万遍なく集めているが、日本の現代アートについては村上隆より先行する菊畑茂久馬、中村一美、大竹伸朗、榎倉康二とリスペクトを感じる展示が続く一方、奈良美智、中原浩大の同世代を除くと次に続く世代が殆ど誰もいない。

会田誠、山口晃、加藤泉、小谷元彦、鴻池朋子、名和晃平・・・。それに誰よりも草間彌生

それはこの時代に生き続けるのは自分だけだと言う強烈な自負なのか。それとも年下からの刺激を受ける仕事がないよということなのか。

それより若い世代には愛情を注いでコレクションしている様にも見えるので、何か特別な意味があることなのか気になる。私がわざわざ名をあげた作家たちで高橋コレクションが成り立っているので、余計気懸かりだ。

「多即一、一即多」のダイナミズム

ともあれ、2月の日本の現代アートシーンは、オノ・ヨーコの静溢と村上隆の混沌を見事に対比させて見せた。それをアジア的静溢とアジア的混沌といったら西欧の文脈にのってしまうことになるが。

しかもそれは単純な対立ではなく、村上の混沌の中には静溢さがあり、オノ・ヨーコの静溢さのなかには時代の混沌が眠っている。

私にはあの「多即一、一即多」の言葉が甦ってきた。このダイナミズムが日本の現代のアートシーンの最大の特徴と言ってもいいだろう。そしてそれを今、この時代に見られるのは東京が世界の文化の中心足りえているからだ。そして村上隆は日本のアートシーン全体を一人のアーチストでありながら体現している。

文化庁よ、文化外交をおざなりにするなかれ!

それならば文化庁は日本のアートシーンを、それ以上に体現し象徴する存在でなければいけない筈だ。文化庁が全体として京都に移転することになるという。国宝の文化財の5割が関西にあるからだと理由付けされている。何と愚かな政策だろうか。今頃文化庁の内部は大騒ぎだろうと察するが、半分は自業自得と言えなくもない。結局文化庁の仕事は古い文化財の保存、活用にあるのだからと、現代アートの支援を怠ってきたつけがここにまわってきたのだ。
 と言っても文化庁の職員の怠慢をあげつらう事で、天下の愚策を認めるわけにはいかない。

日本の美に出会いたかったらみんな京都まで出かけていって下さい。それら案内する職員の人もみんな京都にいますからでは、どこが「おもてなし」かよ。それは世界に文化外交の敗北を宣言しているのに等しい行為ということが分からないのだろうか。


 以前、福田首相が朴大統領に日韓関係改善のために会談しに出かけに行ったことがあった。二人が握手する背景に映っていたのは李禹煥の大きな「ライン」だった。

李禹煥という世界の誰もが知っている作家は韓国の作家ですよ。それは韓国はこのように現代アートを大切にして美術を誰よりも愛する国なんですよという強烈なアピールだった。

日本でいえば李禹煥は草間彌生や村上隆という世界中の誰もが知る作家にあたるだろうが、この国は彼等の作品を国の交渉事の場に持ち出す勇気があるだろうか。

東京をとっぱらって京都に文化庁を押しやるとは現代アートの闘いが国の威信をかけた闘いであるということが分かっていない(勿論私には国の威信なんかどうでもいいのだが、才能のある日本の現代アートの作家達が世界から等閑視される現状が我慢ならないのだ)。

美は乱調にあり、文化は集中にあり

古い世代に分かるような喩え話をしよう。

国の文化の闘いでは、古典芸術はいわば戦艦であり空母である。現代アートは航空機にあたる。

現代アートの闘いは空中戦なのだ。

その空中戦を東京の地で闘わずして、戦艦や空母を京都に退けるとしたら、いわば文化の戦いの中心である東京の空中戦に敗れ制空権を失うことになる。制空権を失った空母や戦艦の運命はミッドウェイや大和、武蔵の悲劇を見れば明らかだろう。

村上隆、会田誠、山口晃、天明屋尚を例に出すまでもなく古典と現代のハイブリットが日本の現代アートの特色であるが、それを支援するための文化庁は東京になくてはならない。

百歩譲って文化庁移転が地方活性化に必要不可欠というなら、願わくば以前民主党の文化政策への無知によって消えてしまったが国立メディアセンターを東京に再構想し、そこを現代アートの中心地として文化庁の一部機能を残してもらいたい。

混沌と言う言葉が分かりにくければ乱調と置き換えてもいい。集中というのが中央集権的なら古典と現代のハイブリットと考えてもらっていい。

しかし転形期にあっては「美は乱調にあり、文化は集中にあり」は時代と地域をこえた真実なのだ。

【村上隆のスーパーフラット・コレクション】
-蕭白、魯山人からキーファーまで-
2016年4月3日まで横浜美術館にて開催中。

Photo: Ryutaro Takahashi / Yuichiro Tanaka

書き手:高橋 龍太郎

精神科医、医療法人社団こころの会理事長。 1946年生まれ。東邦大学医学部卒、慶応大学精神神経科入局。国際協力事業団の医療専門家としてのペルー派遣、都立荏原病院勤務などを経て、1990年東京蒲田に、タカハシクリニックを開設。 専攻は社会精神医学。デイ・ケア、訪問看護を中心に地域精神医療に取り組むとともに、15年以上ニッポン放送のテレフォン人生相談の回答者をつとめるなど、心理相談、ビジネスマンのメンタルヘルス・ケアにも力を入れている。現代美術のコレクターでもあり、所蔵作品は2000点以上にもおよぶ。



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