支店長代理を連れ、菊花賞を買うため病院を脱走
ちょうど菊花賞の週だった。
ぼくも含め、病室はその話で持ちきりになっていた。いつもなら揉めてばかりだが、この時は不思議と意見が合った。成長著しい馬に腕の良い騎手が乗り、好勝負の可能性は十分だった。珍しくみんなの意見が同じで、話せば話すほど、この馬で間違いないという思いが強まった。
「当たることがわかってるのに、買えないとはもどかしいなぁ」
「悔しいですよね~」
「誰かに電話して、馬券を頼めないかな?」
「もう無理ですよ。みんな、すでに競馬場に行っちゃってますから」
(もちろんのことだが、当時は携帯電話など存在しない)
すると、支店長代理が言った。
「競馬場に電話して呼び出してもらうのは?」
「ダメなんです。家族が死んだ時しか取り次いでもらえないんです」
「そんなこと、よく知ってますね!」
「友だちが試したら、そういって断られたんです」
レースは2時間後に迫っていた。
ぼくの足の具合は、だいぶ良くなってきていた。痛いことは痛いが、手術後の経過も順調で、歩くことはできた。
「ぼく、買いに行こうかな」
みんなの視線が集中した。
「もう歩けるから、競馬場に行ってきます。タクシー飛ばせば間に合うから」
菊花賞は京都競馬場で行われるが、東京競馬場でも馬券は買える。
ぼくが着替えを始めると、長老が、
「俺も行こうかな」
「大丈夫ですか?」
「悪いのは手だ。足はしっかりしている」
「じゃあ、急ぎましょう。着替えてください」
「よっしゃ、わかった」
競馬では対立してばかりなのに、この時は瞬時に意見が一致した。
長老が着替えを始めると、
「私も行こうかな」
と声がした。
何と、山口さんだった。
「私も連れていってもらえないかな?」
「支店長もですか!?」
「何だか面白そうだから」
まさかの申し出に、ぼくは心配になり、
「本気で言ってます?」
「ダメですか?」
「ダメなわけありませんよ。じゃあ、急いで着替えてください」
意外なこともあるもんだと思った。真面目を絵に描いたような彼が、まさか一緒に行くとは思わなかった。ぼくは先に出てタクシーを捕まえ、2人を乗せて競馬場に向かった。
「いやぁ、まさか支店長が来るとは思いませんでした」
「映画の大脱走みたいですね!」
「大げさですよ」
「ワハハハハ」
競馬場に到着すると、長老とぼくは意見を確認し、馬券を買った。山口さんも同じ馬券を買った。そのためにきたのだから当然だ。菊花賞は京都で行われるため、ターフビジョンという名の巨大スクリーンで中継を見ることになる。しかしあまりに大勢のお客さんがいて、背伸びしないと画面が見えないほどだ。いよいよレースがスタートした。ぼくらの買った馬は好位置につけている。
「よし、いいぞ」
馬群はまず一周し、やがて第4コーナーを回って直線に向いた。
「それ、行け!」
ぼくらの馬が先頭に立った。
「行け~!」
「そのまま! そのまま!」
病院を抜け出してきた努力が実り、馬券はまんまと的中した。
「やりましたね! 当たりましたよ!」
そういって振り返ると、長老がしゃがみ込んでいる。
「足をやっちまった……」
画面がよく見えるようにとジャンプしたら、着地に失敗し、足を痛めたのだという。
「だ、大丈夫ですか!?」
「こんなことになっちまって、ごめんな」
そんなに元気なら退院しなさい!
病院に帰ると、院長に一喝された。
「そんなに元気なら退院しなさい!」
長老の怪我は軽い捻挫で済んだ。だが、一歩間違えば大ごとになるところだったのだから、叱られても仕方ないと思った。ぼくは退院するしかなかった。
突然の退院をみんな惜しんでくれた。
退院の手続きをして、病院の玄関を出ようとすると、病室の人たちがぞろぞろやってきた。
「またいつか、競馬に行こう」
みんなそう声をかけてくれた。
すると、山口さんがぼくに近づき、満面の笑みで言った。
「あんなに面白かったのは人生で初めてです。スリル満点でした」
ぼくは、何だか、すごくいいことをしたような気がした。
その後も、彼らとは年賀状のやりとりが続いた。
数年後、山口さんから、「支店長」になったと手紙が来た。
次回では、「タダ」でさせてくれたゲーセンの熟女について書いてみたい。
作家:松井政就