1月と6月、毎年2回。冬と夏にイタリアのミラノで開かれるファッションウィーク、通称“ミラノコレクション”に通い始めて20年が経った。
トム・フォードがいたGUCCIの黄金期、人気絶頂期のPRADAやドルチェ&ガッバーナ。ジル・サンダーやヴァレンティノのデザイナーの交代劇、ジャンフランコ・フェレやアレキサンダー・マックィーンといったトップデザイナーの死去……。
仕事の都合で来れなかった時期もあったけれど、自分なりに時代を動かしてきたメンズファッションの変遷は見続けてきたつもりだ。
最初に来たのは23歳、1月の冬だった。
今から21年前。英語もろくに話せず、イタリア語なんてもってのほか。右も左もわからないミラノの街を地図片手に途方に暮れながら歩くのが精一杯。日本人を見つけるや否や誰彼構わず道を聞き、ファッションショーに間に合わないなんてこともしばしばあった。
そんなミラノコレクションに通い始めて10年が過ぎた頃……。いつものようにミラノのラストを飾る帝王ジョルジオ・アルマーニのショーを見終え、安堵の気持ちでタクシーでホテルに向かっていた。
その時、携帯電話が鳴った。
「もしもし、もしもし義雅? 無事に仕事は終わった?」。
それは聞き慣れた母の声だった。
「うん、終わったよ。今、ホテルに戻ってて、明日、日本に帰るとこ。どうした? 急に……」。
「あのね、あなたが心配すると思ったから言わなかったんだけど……。実は5日前にお父さんが倒れたの……。トイレで吐血と下血をしてね。命が危ないのよ……。ごめんなさいね……、本当にごめんなさいね、あなた心配すると思ったから……」。
目の前が真っ暗になった。何が起こったのかわからず、記憶が遠退いていった。
電話口でもハッキリとわかる泣いている母の声。いつも気丈に振る舞っていた母が泣き崩れた瞬間、涙が溢れ出した。
夕刻に差し掛かり橙色に美しく輝くミラノのドゥオモが涙でかすみ見えなくなっていった。
強かった父が血を吐いて倒れるなんて、これっぽっちも考えたことはなかった。
胃癌だった。
すぐに手術をしなければ命を落としかねないほど末期だった。ステージ4。
親孝行らしいことなんてまだひとつも出来ていない自分。やるせない気持ちに教われ、また涙が溢れ出してきた。自分だけの仕事ぐらいしか出来ていなかった半人前の小さい自分が悔やまれた。
胃癌を抱えるほどストレスにさいなまされて仕事を続けていた父のことを思うと涙が止まらなかった。
数年後、父は死んだ。
ミラノコレクションから戻った2月の寒い冬の朝だった。その日、東京は朝から深々と雪が降っていた。
文京区にある由緒正しき寺は、一面真っ白に雪の絨毯が敷かれ、高い美意識だった父に相応しく、まるで水墨画のように美しい世界が広がっていた。
ミラノに通い始めて20年。ミラノコレクション最終日に思い出すのは、いつも優しかった父の横顔だ。
冬の夕暮れ時、輝く橙色の太陽がよりいっそう強い輝きを放った。それは「まだ死にたくない。もっと生きたい……」と願う父の言葉のように感じられた。
同行した編集部の部下たちに悟られないよう、冬の厳しい陽射しに向かっていくタクシーの中で、黙ってレイバンのサングラスをかけた。サングラスの奥は涙で溢れていた。
あれ?何の話をしていたんでしたっけ?
hoshiba