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ボブ・ディランを愛したみうらと、 文学的な殴り合いに発展!

干場:この対談の半年くらい前に出ていただいたんですけど、『一人電通式』というあの本も読ませていただいて、いや〜面白い方ですよね。その現場でびっくりしたのは、安齋さんと殴り合いの喧嘩したとか話されていて、『勝手に観光協会』の写真集も見せていただきましたよ。

安齋:そうそう、喧嘩の写真集ですね(笑)。

干場:それを見せてもらった時に「本気で喧嘩したんだよ」って、おっしゃってましたね(笑)。


安齋:本気でやりましたよ。みうらくんは歯が欠けたし、俺も未だに傷があるし、メガネもグシャグシャになったし。その原因のひとつが映画の話だったんですよ。みうらくんは既に自身の原作『アイデン&ティティ』と、『色即ぜねれいしょん』の2本を田口トモロヲさんが撮ってるんですけど、キュンとする青春ものの良い映画なんです。僕は、みうらくんのいくつかの原作本で小説化されていたものも知っていて、その中にSMの小説があるんですよ。

それで昔うっかり「それを映画にしないの?」って酔ってる時に言ったら、「いや誰もそんな話してくれないし、逆に映画にしてくれんの!? あれを映画にしてくれるんだったら本当に嬉しい、安齋くんしかいないよ」って盛り上がったんですね。彼、ものすごく嬉しかったんでしょうね。なんと僕の知らないところでスポンサーを取ってきてくれて、映画話がトントンと進んだんですよ。

でも、僕はトントンとくると急に怖くなっちゃって。だってスタッフは俺しかいないんですよ。カメラマンも誰も知らない中で一人で立ち上げていこうっていう勇気もなかったし、「ちょっとそれはどうかな」という話を石垣島で彼に話したんですよね。その話をしたときは泡盛が4本くらい空いていたタイミングで、「せっかく俺が集めてきたのに」って彼も気分を害したんです。僕が尻込みしたのを彼は非常に憤って、それで大喧嘩になったという。

干場:なるほどそういった前談があったんですね。

安齋:そうです。まぁ他にもいろいろあるんですけどね。二人とも酔ってたんで。「泡盛は酔わないし、次の日も残らない」って聞いてたんですけどね(笑)。ガンガン飲んで結局ホテルまでの500mくらいを歩く道すがら、ずっと喧嘩をしていましたね。

干場:周りの人はどうなっていたんですか。

安齋:みんなだいたい避けていくし、早い時間から飲んでいたんで人通りも多かったですしね。

干場:お二人とも有名人だから目立ちますよね(笑)。

安齋:ゴミ箱の上に乗って飛びかかったり、相手を信号機にぶつけたり、ガードレールに投げたりね。すごかったですね(笑)

干場:ちなみに、安齋さんとみうらさんは知り合ってからどのくらいなんですか。

安齋:僕が32歳くらいのときかな。きっかけは知り合いの誕生日パーティに行ったんですよ。誘ってくれた友達がフロアに踊りに行っちゃって、僕は一人になっちゃったんです。そこに来ていたみうらくんも一人でポツンとしていて、お互いに知り合いがいない中で“二人とも宝島で連載をしている”という唯一の共通点を頼りに話をし出して、そこから「だいたいこういう所は嫌いだ」ってことで意見が一致して、そこからロックの話を二人で2~3時間ずっとしてたんですよ。お酒が入っていたのもあって、二人とも座っていられなくなって、立ち上がっちゃって。昔のロックの逸話とか、なぜロックが面白いのかって話をずっとして、「面白いから、また会いましょう」って…、そこからですかね。

干場:その時に話してたお互いのロックの共通項って、何だったんですか。

安齋:みうらくんはボブ・ディランが好きで僕はライ・クーダーが好きでした。ボブ・ディランはスターじゃないですか、一方ライ・クーダーは当時良いアルバムは出しているものの、どっちかというと売れてないミュージシャンの一人だった。ただ僕はライ・クーダーを一生懸命に語り、みうらくんはライ・クーダーから発生したアーティストの話をしていましたね。

干場:一番影響を受けた方は、誰なんですか。

安齋:当時はやっぱりライ・クーダーですね。プリンスも好きになりかけてたけど。

干場:どのタイミングで一番聴いてたんですか。

安齋:学生の頃だから、72年とか73年とかから80年代頭ですね。

干場が検索したライ・クーダの動画に観入る二人

干場:じゃあ、1969年のウッドストックの後ですか。

安齋:そうそう。ライ・クーダーはオンタイムでアルバムを聴いていたんです。1枚目から3枚目まではわりとスムーズにリリースしていたので、1日中1年間聴いていましたね。レコードって擦れるから聴くのがもったいなくて、カセットに最初2本ダビングしておくんです。仕事場用と家用ですね。でも、ずっと聞いてたからカセットが伸びてくる頃には歌詞カードを見てもいないのに細かいところのニュアンス含め、全てスラスラ歌えるようになっていましたね。

干場:それ、相当聴いてますね(笑)。安齋さんが20代の頃ってどんな感じだったんですか? 当時からずっと長髪だったんですか。

安齋:長髪になりかけていましたね。世の中的にはアメリカンロックからグラムロックとかに二分化してる頃でした。僕はアメリカンロックに傾倒していましたね。今で言うスワンプ系というんですけど、そっちの泥臭い方とでもいいましょうか。

干場:なんで、そっちに惹かれていったんですか。

安齋:ライ・クーダーは「ボトルネック奏法」という弾き方が得意で、その音が好きなんです。ボトルのネックのところを切って指にはめて弦をスライドしていくんですけど、そのときの「キューン」って音や、ネックがボトルに当たって出る「カタッ」っていう音、そういういわゆる雑音がたまらないんですよね。曖昧に揺れた感じの音って言えばいいのかな。これ、当時の彼女にも散々説明したんですけど、全然分かってもらえなかったですね。あと、ライ・クーダーって人は味のある歌い方で、まぁこれは男しか分からないだろうって思いますね。ライ・クーダーは78年に来日したんですよ。

干場:ライブは行かれたんですか?

安齋:虎ノ門の久保講堂でのライブだったと思うんですけど、誘っても誰も一緒に来てくれないので一人で行きました。初日に感動しちゃって次の日もまた観に行って。1曲でも多く聴きたいんでアンコールは必死でした。男ばっかりで手拍子をずーっとしてるんですけど、彼は5回もアンコールに出てきてくれたんです。最後に出てきた時には「もう勘弁してくれよ」って感じでしたけどね。

干場:どの曲がお好きなんですか。

安齋:「Dark End of the Street」(※記事最下部動画ご参照ください)ですね。もともとはR&Bで歌がある曲なんですけど、それをインストだけでやってるんです。ライ・クーダーの話するのは多分20年ぶりくらいです。「Dark End of the Street」を聴くたびに毎回泣いてましたもん。1日7〜8回は泣いてましたね。

干場:泣きすぎですね(笑)。

安齋:当時20歳過ぎくらいで童貞も捨てて、人生の絶好調のはずじゃないですか。でも、これを聴くと葬式にいるような感じがするんですよ。高校は共学だったんですけど男子校みたいで、しかも学生運動の真っただ中に高校が始まったんで、高校時代がすごくドス黒かったんですよ。何の希望もないまま、なんとなく流れの中でデザイン系を目指すようになっちゃったと。

干場:もともと好きじゃなかったんですか。

安齋:もともとはそんなに。まぁ、親父がそっち方面のことをしていましたけどね。

干場:お父様は何をされてたんですか。

安齋:父は絵描きで、油絵で肖像画を描いていました。2階が親父のアトリエで、そこに僕のベッドがあったんで、「油絵の具の匂いが付いてないかな」とか気にしたもんですよ。親父は手ほどきはしてくれなかったんですけど、色々描くところは見せてくれていましたね。

干場:その背中を見てきたってのもあるんですね。

安齋:背中というか親父はコッチ見て描いてましたけどね(笑)。親父も恥ずかしいんじゃないですかね、絵の進捗を見られるのが。あぁ、でもライ・クーダの話を久しぶりにできて嬉しいな。

干場:僕、リッチー・ヘブンス好きなんですよ。あれは衝撃を受けましたね。

安齋:歯がない人ですね。それはどうしてですか。ウッドストックの映画とか、ご覧になられたんですか。

干場:はい、ウッドストックの映画も観たんですけど、最近YouTubeで当時の映像を観て、あの人が最初に出てきて、地べたに座っていた観客が一斉に立ち上がったとき、「この人スゲェな」と思って。あれで感激を受けましたね。

安齋:リッチー・ヘブンス好きの人は、初めて会いましたね。

干場:一人でウッドストック全体を立たせちゃいましたからね。

安齋:怖いですよね、どう考えても。一人でそんな大勢に立ち向かうこと自体が。

干場:でも、ある意味監督された時って、そうだったんじゃないですか。

安齋:最初の時は一人だと思ったんで、さすがに尻込みしちゃったんですけど、次に話が来た時は、うん、そうですね。

干場:でも、これ一度大喧嘩してるわけじゃないですか。なぜ、そこにもう一回戻れたんですか。

安齋:今でもはっきり覚えてるんですけど、渋谷でライブが終わった後かな、ドジョウ鍋をつつきながら、「どうですか? 映画撮りませんか? もう原作も主演も、やってくれる会社も決まってるんですけれど」って、突然敬語で話してきたんです。

干場:良い関係ですね。

安齋:今回は原作も読んでないし、主演も誰か聞いてないし、どこの映画会社でやるかも聞いてないけど、でもそこまで言ってもらったので即答で「やるよ」って答えました。たぶん僕が尻込みしたことをきっと、みうらくんなりに分析して、用意してくれてのことだろうと思った。だって、じゃなかったら2度目断ったらもうないでしょ。

干場:素晴らしいですね。これはどのくらいで撮ったんですか。

安齋:8日間ですね。実質7日。

干場:その1日は何だったんですか。

安齋:撮影だけは7日間、残りの1日は移動日。

干場:舞台は、どこなんですか。

安齋:東京から雪山に行って、あとは学生時代を撮ったりとか、生活しているところを撮ったりとか、ライブのシーンを撮ったりとかで、東京で何箇所かやって、それから雪山で2日間。

干場:すごい過酷なロケ。

安齋:あんまり言うとネタバレになっちゃうから、つまんなくなっちゃうかもしれないけど、主演の前野くんと月船さららさんは「死にそうになった」って言ってましたね。僕もさすがに雪の中で痙攣し出した時には「もういいや」って思ったもん。それはやばいですよね。

干場:今回、安齋さんが込めたこだわりってどこですか。

安齋:こだわりは無いんですよ。って言うと怒られますけど、1回映画作りを断ってますよね。2回目でやるって決めたものの、その映画の次作があるとか、ヒットするとか、想像出来ないじゃないですか。だから「とりあえずこの1本で悔いのないようにしよう」ということだけですね。今まで色々思ってきた色んな思いをどれだけ入れられるかなって。

干場:いわば集大成ってことですね。

安齋:集大成ですね。つまりは遺作ですね。完全に遺作ですよ。「これを僕の遺作にしよう」という気持ちでした。もうギャラの話もよく分からなかったんで、とりあえず撮影をしてもらうカメラマンと音楽を作ってくれる人だけは僕が信頼できる昔からの人にやってもらおうと思って、条件的にはそこだけです。ぜひ、観ていただきたいです。

NEXT>>>安齋氏の「タモリ論」とは?



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